【!】アニメ、ゲーム設定ごちゃまぜです。
――病院の中では携帯電話の電源はお切りください。 病院での決まりは遵守する音也です。一通りの診察(のようなもの、だったのでしょう。何故なら特に薬を処方されるわけでもなかったのですから)を終え、教授の連絡先の書かれた名刺をだけを受け取って、音也は病院を後にしました。 そして最寄りの駅から電車に乗り、『優先席付近では携帯電話の電源をお切り下さい』というアナウンスを聞いた瞬間、スマートフォンの電源を切ったままだった事を今更ながらに思いだしました。 音也が身を置く職種は突然の予定変更がザラにある世界です。もしも緊急の連絡を取りこぼしていたのならとんでもない事だと音也は慌てて電源ボタンを長押しすると、暗い画面にぼんやりと製造メーカーのロゴが浮かび上がりました。 起動までしばらく時間のかかるスマートフォンから目を離し、音也は窓の外の景色を眺めます。 外の景色は朝一番の仕事場であるST☆RISHの冠番組の収録スタジオの最寄駅まで3駅の所で、忙しなく流れていく色は灰色。温度を感じないビル群はまるで朝日の中で俯いているかのような憂鬱とした姿でした。あれ、と思って音也は腕時計を確認します。時刻は午前8時、曜日表示はSun。そういえば電車の中も座席こそ埋まっていますが、かなり空いています。嗚呼なるほど今日は休日なんだな、と音也は思いました。今の今まで音也は少しも気が付きませんでした。早乙女学園在籍時には休日を楽しみにする普通の学生にふさわしい心持ちがありましたが、今や音也はカレンダー通りの休日の無い業界に身を置くことにすっかり慣れきった人間になってしまったという事なのでしょう。 窓の外は何時もと変わらない、都心の光景です。ただ、人の姿の無い街は朝日を受けてどこもかしこが濡れた様に光っています。その光景が何処か電車の中の音也を冷たく遠ざけているように感じます。何もかもが何時もよりもよそよそしく見えてしまうのは、音也自身の心が何時もより少し落ち込んでしまっているからなのでしょう。 音也の手の中のスマートフォンが林檎のマークからアイコンの並んだ画面に切り替わり、数回震えながら不在着信の通知とメールがあった事を知らせます。すわ収録スタジオの変更か、ロケ開始時間が早まったか、と音也は焦って中身を確認しましたが、メールも電話も差出人はトキヤでした。時刻を見てみると、先に不在着信が、そしてその数分後にメールが送信されたようでした。 メールの中身は『部屋に寄ってみたのですが、不在だったので。携帯の電源も切っているのですか?まさかとは思いますが、収録には遅れないでください』という短くて、要点のみのとてもトキヤらしいものでした。ですが、心配してくれたのだと音也にはよく分かります。 今日はST☆RISHが全員揃う日です。それはもちろんトキヤと顔を会わせる日でもあるというのに、昨日、部屋の前であんな別れ方をしてから、夜に詫びのメールは入れたものの、トキヤときちんと話をしていなかったのです。そっけないように見えて、懐に入れた人間に対してはとても面倒見のいいトキヤのことです。音也の事を心配して、朝から音也の部屋に寄ってくれたのでしょう。もしかしたら一緒にスタジオまで行くつもりでいてくれたのかもしれません。 音也は手早くメールを打ち込みます。『ごめん携帯見てなかった!今スタジオに向かってるよ!』――そうやって送ればきっとトキヤは安心するでしょう。トキヤはとても優しい人なのです。 ふ、と音也がトキヤの事を考えて口元を緩めた瞬間の事です。ぐぐ、と喉にせり上がる感覚に音也は眉間に皺を寄せました。ぱっと口に手を当て、喉の途中までこみ上げてきたもの――それをまるごとゴクンと飲み込みました。 するとどうしたことでしょう、こみあげてきたものはすっかり音也の体の中に戻りこんでしまって、何事も無かったかのようになりました。 これがまさに音也が昨日の夜発見した『飲み込む』と言う事です。吐き出してしまいそうになったものを、もう一度飲み込みなおして、吐かずにすませる方法です。 音也は少し気分が良くなりました。もちろん不思議なものを吐くと言う状況になんら変わりはありません。変わりはありませんが、上手く飲み込むことが出来ると言うことは、音也に状況をコントロールする力が戻ったと言って差し支えないでしょう。音也はもう振り回されるだけではなく、太刀打ちできるのです。 「うん…大丈夫」 なんとかなりそうな予感に音也は思わず小さく頷き、こっそり独り言を零しました。言葉を音にして自分の耳からその言葉をもう一度心の中に取り込むと、また一つ勇気が増したような気がします。 こうして音也は教授の言葉を遠くに飛ばしてしまうことにしました。いえ、遠くに飛ばしてしまうことにしてしまわないと、本当は怖くて怖くて、とっても不安で不安でたまらなかったのです。その気持ちの先で佇むのは何も出来ずに泣いていた子供の頃の音也。あの頃の自分が不安に惑う今の音也の前にひょっこり顔を出してしまう事を、音也は気が付いていました。 メールの送信ボタンをタップして車内のアナウンスに音也は顔を上げました。目の前に滑り込んでくる風景、それはいつの間にか見慣れたテレビ局の最寄り駅のホームに変わっていました。そのホームを降りた先にあるのは、幼い頃、泣いていた音也が持たなかったもの、泣くのをやめた音也が欲しがったもの、そして大人の一歩手前にいる今の音也がようやく手に入れた夢と希望のステージがあるのです。アイドルと言う世界が。不安がってなんていられません。そこにあるのは音也にとって光り輝くものたちなのですから。 しかし駅のホームが太陽に照らされ、白々しいほどに光っているのを見ていると、何故か音也は少しだけ、ほんの少しだけ、寂しく感じたのもまた事実なのでした。 音也が楽屋に入ると、既にメンバーは全員揃っていました。今日はST☆RISHの冠番組のメインコーナーの2本撮りの後に歌の収録というスケジュールなのです。楽屋のドアを開けた瞬間、全員分の靴があるのは分かっていましたから、音也はすぅ、と大きく息を吸って殊更元気で大きな声を出しました。表情も皆が知っている『一十木音也スマイル』を全開にして。 「おっはよー!!うわ、もしかして俺が一番最後?」 「はよー。遅かったなー」 そんな風に真っ先に音也に挨拶を返してくれたのは、入り口の近くの鏡で髪のセットの最終チェックをしていた翔でした。続いて「おはよう、一十木」と言ったのは緑茶を飲んでいた真斗で、ひらりと手を挙げたのは雑誌を読んでいたレン、そこから一拍置いて「おはようございます〜」と朗らかな声を出したのは那月でした。変わらない楽屋の光景、音也の大事な日常がそこにはあります。 ですがその光景から一人欠けていました。それは音也が今日、特別気にかけなければならない相手です。音也は少しドキリとしながら周囲を見回そうとした、その時でした。 「音也」 その声は音也の胃の底の方をきゅっと締め上げました。 音也の頭の後ろから投げかけられたのは静かな声でした。いえ、実際のところはいつも通りの声だったのでしょう。トキヤに対して、隠すことが一つずつ積み重なっていく音也にとってはそれが酷く静かな声に聞こえた、という事にすぎません。 音也はこっそりと息を飲みました。せっかく心の準備をしてドアを開けたというのに、後ろから――それは恐らくトキヤが楽屋の中、入り口のすぐ隣に設置されている洗面台で手を洗っていただとか、そういう事をしていたからなのでしょうが――突然出てこられては何もかもが台無しです。 しかし音也は素早く驚きも不安も戸惑いも、何もかもを遠くに放り投げて、一瞬の間にきゅっと気持ちを引き締めました。何があっても勘付かれてはいけません。特にトキヤには絶対にダメなのです。 音也はすうっと息を飲みこんで元気よく振り返りました。もう一度最初から。元気な笑顔で仕切り直しです。 「おはよー!トキヤ!携帯気が付かなくてゴメン!ちょっと電源切っててさ」 「電源を切っていた、って何故です。それに随分朝早くに寮を出たみたいですが…」 「あー、ちょっと、ほら。行くところがあって」 上手く口をついて出てこない言葉達に音也は自分を苦々しく思いました。行くところがあって、とは言い訳にも、嘘にも、誤魔化しにさえもなっていないではないですか。 どうして自分はこんなに言い訳が下手なんだろう、と音也は思いますが、そもそも音也は元来、嘘をつかないのです。誰しもが年を重ねるごとにつれて覚えていく物事のはぐらかし方を、音也は嘘では無く、言葉の使い方で為してきただけなのです。 例えば、家族構成を聞かれれば大家族、と答える。私物が少ない理由を勉強部屋が共用だったから、と言う。そんな風に。それは確かに嘘ではないのです。ただ相手の言う『家族』の形態を知りながら、世間が言う『家』の在り方を分かっていながら、音也はそれについて認識のすり合わせをしないだけなのです。 だから嘘を音也は上手くつけません。こんな事ではトキヤを上手に誤魔化すことは出来ないでしょう。 「と、とにかく変な事はしてないよ。…大丈夫だから」 「ですが…」 トキヤが言いよどみます。音也はトキヤが迷っているんだろうな、と思いました。これ以上踏み込んでもいいものか、トキヤは慎重に見極めているのです。 トキヤが不用意に人のテリトリーに踏み込んでこない事を音也は良く知っていました。それはもうずっと昔から、早乙女学園で同室だった頃からです。 もしかしたらトキヤの方もHAYATOの事がありましたから、他人に踏み込まれたくない代わりに人に踏み込まないというルールを作っているのかもしれない、と最初は思ったりもしたのですが、どうやらトキヤはただ純粋に人の心に土足で踏み込むことを良しとしていないタチのようでした。なぜならトキヤは仲の良くなった人間には、とても面倒見が良かったからです。それは学園に在籍していた頃からで、当然その最たる例は音也でした。人との関わり合いを望んでいない人間にそんな事は出来ません。 音也はトキヤが人との繋がりを大事にしているからこそ、その距離を測るのに慎重な人なのだときちんと分かっていました。 「トキヤは心配性だなぁ。大丈夫、トキヤに迷惑かけないから」 音也は分かっていてこう言いました。 音也は自分の事を少し卑怯だな、と思います。こう言えばトキヤがきっと身を引いてくれると知っている上で言葉を選んだからです。嘘はつかなくとも、こんな風に他人をかわす方法が上手い自分自身を音也はあまり好きではありませんでした。 トキヤはまだ何かを言いたそうに口を開きかけています。音也はトキヤからどんな言葉が放たれるのだろうかと少しひやりとしましたが、ちょうどその時スタッフが打ち合わせの資料を持ってやって来たので、結局その話はうやむやになってしまったのでした。 ギターを弾き終わって、その爽快感に音也はほうっと息を吐きました。 スタジオ収録は目の前にお客さんがいるわけではありません。当然ファンとコールアンドレスポンスが出来るわけでもありません。目の前にあるのは何台ものテレビカメラと何人かのスタッフ、そして背景のきらびやかなセットを一歩出れば、他は無機質なコンクリートの床と黒い暗幕、機材を運ぶための剥き出しのレールにぼんやり浮かぶ非常灯があるばかりです。そこには歓声や、向けられる沢山の束になった視線はありません。 それでも音也はスタジオ収録を物足りないなんて思った事はありません。何故なら音也を捉えるそのレンズの向こうには何人ものお客さんがいるからです。それはきっと何千、何万もの視線でしょう。テレビの向こう側には一十木音也の曲を聞くのが初めてと言う人もいるはずです。そんな人にも何か一つでも、一十木音也の『何か』が伝わればいいと音也は思うのです。 遠く昔、幼い頃、母親の膝の上で眺めたテレビの向こうの煌めくアイドルたちの歌と表情。音也を高揚させたあの記憶達。その記憶の中のアイドル達に少しでも近づいて、誰かの太陽になれればいいと思うのです。それを実現させるテレビと言うツールもまた、音也は大事に思っていました。 全員でのコーナーを2本収録した後、次は同じ番組の歌のコーナーの収録に移りました。歌のコーナーの収録でこのテレビ局での今日の仕事は終わりです。 しかし今日は6人全員の収録ではありません。このコーナーではいつも何かしらメンバー全員が歌を歌う事が常なのですが、今回からは3週連続企画となっていて、メンバーそれぞれの卒業オーディションの曲を披露する事になっていました。組み合わせも学園の同室組と言う徹底っぷりで、初週にあたる今回は音也とトキヤの割り振りです。 音也たちは卒業オーディション前にST☆RISHとしてデビューが決まりましたから、本来、卒業オーディションの曲はありません。卒業オーディションとはデビューを決めるためのものなのですから。しかし6人は卒業オーディションにも参加していました。それは審査対象としてのステージではなく、あくまでデビューを決めた6人それぞれの個人の実力を示す場としてのそれです。 一見、卒業が決まった状態でのオーディションならばプレッシャーも少ないと思われがちですが、そんなことは全くありません。卒業オーディション無しでデビューを決めるという、早乙女学園設立以来の特例を作ってしまったのですから、それに恥じないパフォーマンスを個人のステージの上でもしなければならないというのは、デビューを決めるプレッシャーとはまた違った重圧があったのでした。 そこで発表されたそれぞれのソロ曲――6人それぞれのステージは誰もがデビューを納得させるに十分なもので、曲の評価もとても高いものでした――はあくまで学園での課題曲としての扱いですから、今もST☆RISHのアルバムなどには収録されていませんし、収録される予定も今の所ありません。 たまにライブで披露されるそれらの曲を是非ともテレビで見たいと言うファンからの声が多く、今回スペシャル企画として放送が決まったのでした。 最後のギターソロの残音が消えて数秒、音也はアイドルとしてきっちり最後までカメラに向かって笑顔を向け、カットがかかったと同時に額に浮かんだ汗をぬぐいました。心地のいい疲労感です。 ワクワクしてキラキラしてドキドキする恋心。音也がその中に歌い込んだのはそんな気持ちです。 恋をすると毎日が楽しいし、これからの未来を想像して楽しみで胸がいっぱいになる――そんな気持ちをめいいっぱい詰め込みました。若さとエネルギーと明るさに満ち溢れた一十木らしい曲だった、と講評を述べてくれたのはSクラスの先生だった事を音也はしっかり覚えています。 あの時、デビューの夢が叶い、慌ただしくデビューライブの準備をしながら、授業もきっちりと受け、とどめと言わんばかりに卒業オーディションの準備をする事は文字通り、目の回るような忙しさでした。体力に絶対の自信があった音也でも自室に戻ればベッドに飛び込むだけの日々が続いたほどです。 そんな日々の中で時間を見つけては卒業オーディションの歌詞を書くとき、音也が自分自身にぶつけていたのは恋とは何であるかと言う根本の問いかけでした。 絶対に叶う事のない恋の相手との学園生活の終わりが近づき、あの時感じていた恋の辛さ。卒業してしまえば同室でなくなると言う寂しさ。音也自身が考えていたそんなほんの少しの恐れを、音也は恋のキラキラとドキドキで満ちた歌詞で覆い隠したかったのかもしれません。 それに音也は楽しい歌を歌うことをポリシーにしていましたから、卒業オーディションの歌詞は希望に満ち満ちたものになったのも、ある意味当たり前の結果でもありました。 皆、この世の中の辛い事はよく知っているはずです。悲しい事は待っていてもやってくるのに、楽しい事は待っていてはやってこないのです。とてもとても不思議な世の中です。音也はその事にずっと早くに気が付いてしまっていたものですから、せめて音也はこの世のキラキラ輝くものを皆より先に走って掴み取って、音也なりのキラキラをまぶしてステージから見せたいと思っているのです。勿論恋の楽しさも。 恋は本来楽しいものなのです。今でも音也はそう信じています。そうあるものだと考えています。 「お疲れ様でした」 ステージから降りた音也をトキヤがねぎらいます。トキヤは音也の収録中、スタジオの中に設置されている簡素な椅子に腰掛けて音也の歌う姿を見ていたのです。それ自体は特段珍しい事ではありません。同時収録でも出番が無い時や、連続して収録している時など、メンバー同士がスタジオの中に設置されている椅子に座って仲間の収録を見るのは習慣になっているのです。ただし今日はトキヤと音也以外のメンバーはメインコーナーの収録が終わると、それぞれの仕事の現場に行きましたから、今の音也のステージを見ていたのはトキヤだけです。 「ありがと、トキヤ。どうだった?」 「そうですね、…エレキのテクニックの話を今ここでしても?」 「わー、それは後で!楽屋で教えて!」 焦った音也がそう言うと、神妙な顔をしていたトキヤは突然表情を緩めました。 「冗談です。良くできていましたよ。あなたらしいいい曲ですね」 そんな一言を残して、音也と入れ替わりにトキヤがステージに入ります。その背中を見て、ようやく音也は驚きで固まっていた意識をやっと動かせることに成功しました。思わず、うわーびっくりしたー、と独り言を呟いてしまうほどです。 昔と比べるとトキヤが表情を緩める事はずっと多くなりましたが、それでもトキヤは自分に厳しい分、どんな事にも妥協を許しません。そのポリシーはトキヤ自身の表情にも現れていて、表情を崩すことはめったにありません。そんなトキヤが柔らかい表情を浮かべながら、加えて褒めるとは明日は雪でも降るのでしょうか。(勿論そんな事を言えば音也の上に雷が落ちてくるので絶対に言いませんが)音也の頭の中は驚きと喜びが一気に詰まって他の事を考える余裕が無くなってしまいます。トキヤのそれは不意打ちの攻撃とも言える威力を持っているのです。 スタッフがバタバタとセットをトキヤ仕様のものに替える中、トキヤはスタンドマイクの高さを調節しています。音也はそんなトキヤを見ながらパイプ椅子に腰掛け、スタッフから渡された良く冷えた飲み物を頬にあてて、火照った顔を覚まそうと努力しました。 ぼんやりとトキヤのさっきの台詞を思い出して、幸せな気持ちになった音也はへへ、と小さく笑います。その時でした。 「…っ、」 喉の奥からぐぐっとせり上がる何か。喉の下からせりあがってくる大きな違和感が音也を襲います。 ここで吐いてしまうなんてとんでもないことです。咄嗟に机の上にあった台本を掴み、音也は少し俯いて台本を読んでいる風を装いながら、慌てて息を止めました。そして喉の奥をぴったりくっつけるイメージを頭の中で思い描きながら、ぐっと顎から首にかけての筋肉に力を入れます。 スタジオの中にアップテンポのメロディーが流れだしたのを聞きながら、音也は『それ』をぐっと飲み込みました。 はぁと小さく息を吐くとさっきまでの吐き気が嘘のように収まり、ほっと息をつきます。その吐き気は今まで経験した中でもかなり大きな波でした。 深呼吸を数回繰り返して、落ち着いた音也は顔を上げました。イントロが終わり、トキヤが歌い出したのは、トキヤの持ち歌の中でも随一のアップテンポを誇る曲です。 その曲の歌詞は真っ直ぐ愛を伝える、とても情熱的なそれです。音也はそれを初めて卒業オーディションで聞いた時、随分驚いたものでした。あのトキヤが、あの何時も冷静沈着なトキヤが、あんなに感情をさらけ出すなんて驚かずにいろと言う方が無理です。笑顔さえ珍しいトキヤの表情の下にこれほどまでに情熱的な一面があったなどと誰が想像できたでしょう。よしんばそんな内面があったにしても、それをそんな風に文字にして歌詞にまとめ、その想いを歌に乗せるなんて、そうしようとトキヤに決意させるまでに、一体どんな心境の変化があったというのでしょう。 トキヤは何時だって薄い殻を纏っています。いえ、トキヤだけではないでしょう。誰だってそうです。皆、剥き出しの柔らかい中身なんて見せたくはないはずです。 トキヤの場合、他人に簡単に馴れ馴れしくしないという、目に見える形で殻を出していると言うだけなのです。ガードの固い雰囲気で最初から柔らかい場所に人を近づけません。レンを引きあいに出すのならば、彼は笑顔で柔らかい急所を覆い隠しています。音也もレンに近い方法で柔らかい場所を守っています。そういう違いがあるだけなのです。いいも悪いもありません。 トキヤはその歌にどれほどの想いを乗せているのでしょうか。殻を破らせてしまうほどの強い想い。歌詞になるだけの感情のうねり。 そして、どれほどの強くて大きい想いがあれば、独占欲さえ滲ませて相手を強く思う言葉たちを生み出す事が出来るのでしょうか。どうしてそんな想いを抱えてしまうことになったのでしょうか。 作詞をする音也には分かります。あれは生身の、トキヤの中の剥き出しになった本音。フィクションの無いむき出しの気持ち。きっとその本音があるのはトキヤの中のとびきり熱い場所なのでしょう。 ――ついてくればいいんだ… 歌いながら、トキヤはテレビカメラに向かって挑発的に手の指をくいくいと曲げています。歌詞の通り、ついてくればいいんだ、そういう事なのでしょう。これがオンエアされれば何人の女の子たちがテレビの前で黄色い声を出すのでしょうか。きっと音也が想像できないほど多くの女の子たちなのでしょう。 歌は二番に入り、伸びやかで、しかし力強い声がスタジオを包みます。そこでふと音也は気が付きました。 「…トキヤ?」 トキヤの視線が音也に向けられているような気がするのです。 しかしそれはきっと気のせいだろうと音也は思いました。トキヤは何台ものカメラに囲まれていても、その中にどう映るのかきちんと把握しています。真っ直ぐ1カメを見るタイミング、視線を少し逸らせるタイミング。それはもういっそ惚れ惚れするほどなのです。きっとHAYATOの経験の分だけ手慣れているのでしょうが、音也には何年経ってもトキヤほどカメラに上手く『撮られる』ことが出来ない様な気さえします。 そんなトキヤが収録中に音也を見つめることなどあるでしょうか。音也を見て、音也だけに向かって歌っているような歌い方をするのでしょうか。いいえ、ありません。きっと偶然トキヤの目線が音也に向けられただけなのでしょう。 ――離さない絶対… トキヤがそう歌いながら音也をじっと見ているのも、音也の気のせいに違いないのです。 音也は少し考えます。ああ、考えてはいけないのに、と思いながら考えてしまいます。 思考とは押さえれば大きくなるもの、感情とは抑えつければ暴れるものなのです。吐き出してしまうのは言えない恋心。 ですから、音也自身が恋心に囚われなければいいのです。意識しなければいいのです。たったそれだけです。たったそれだけできてしまえば、ものを吐かずに済むのです。しかし考えてしまうのです。意識してしまうのです。そもそも恋とはそういうものなのですから。 ――トキヤにあれほど想われるのは一体どんな素敵な女性なのだろう。 ――トキヤは一体誰の事を考えながらあの歌詞を考えたんだろう。 あ、しまった。音也はその瞬間、自分の背筋の下の方にすっと体の中の血が集まっていくような気がしました。今までにない嫌な予感です。 目の前では既にトキヤの収録が終わっていました。トキヤはすぐにモニターをチェックした後、幸いにも音也の座っている椅子の方には戻らずにスタジオの外に出ていきました。何かあったのだろうか、と音也は少し思いましたが、清潔を好むトキヤの事ですから、顔の汗を落としにいったのかもしれません。兎にも角にも、音也にとってはとても都合のいいものだったので、音也はこっそり口に手を当てて、トキヤが出て行った方とは別の出口からスタジオを後にしました。 ドアを開けて、口を両手で覆っていた音也は急いでいた足に急ブレーキをかけました。どうしてここにトキヤが。 「音也?」 「あ…」 トキヤはちょうどトイレから出てくる所で、飛び込んだ音也と洗面台の前で鉢合わせした格好になりました。いえ、トキヤが此処にいて何らおかしい事はないのです。ここはトイレなのですから。収録終わりのトキヤが音也の想像通り、顔の汗を落とすために真っ直ぐここに向かったとて何がおかしい事があるのでしょうか。 数年前に移転新設されたばかりのこのテレビ局はどこもかしこも綺麗なものです。トイレも同じくとても綺麗で、初めてこのトイレに入った時に「うわっホテルのフロントみたい!」と言った音也の言葉に翔が大笑いをしながらも「確かに!」と頷いてくれたのはそう遠く前の話ではありません。 そうなのです、トキヤがトイレに居ても何らおかしい事はないのです。が、しかし。音也は首を捻ります。 このトイレはさっきのスタジオから一番遠い場所にあるトイレなのです。スタジオから少しでも離れたトイレに行きたかった音也ならまだしも、何故トキヤはもっと収録スタジオに近いトイレを使わなかったのでしょうか。 トキヤ。音也はそんな風に話しかけようと思いましたが、それはできませんでした。 何故ならそれをしようとすると、途端に唇から溢れてしまうからです。もう『もの』を吐き出したくて、吐き出したくて仕方ないのです。言葉より先に開いた唇から落ちてくるのは華か。もしくは宝石か。それとももっと他の何か音也の想像だにしていない何かでしょうか。 音也は手を軽く振ってトキヤに先に出て行くように促しました。一緒に笑みを浮かべてみようとしましたが、それが成功したのか音也には分かりません。なんせそれどころではなかったのですから。 すぐにトキヤを気に掛ける余裕などなくなり、真っ直ぐ一番奥の個室に飛び込んだ音也は素早く鍵を閉めます。そして念には念を入れてもう少し吐くのを我慢して――と言っても、限界を迎えていた音也にそれが出来たのは10秒にも満たない間だったのですが――きっとトキヤはもうトイレから出て行っただろうと判断して、やっと唇を開きました。 「う、え…っ」 ぼたぼたと音也の唇の中から華が零れ落ちていきました。大きな大きなぽってりとした重さを持った毒々しいまでの赤色をしたダリア。その周囲を縫うようにぱらぱらとブーケンビリアの淡い紅色の花弁。それらが真っ白で磨き上げられたトイレの中に寄り添うように静かに散っていきます。 ああ、どうしようどうしよう。なんで考えちゃったんだろう。 音也は零れる華たちに邪魔される呼吸にあえぎながら、滲む視界を忌々しく思います。施設に居た頃、酷い胃腸風邪にかかって食べたものを吐いている時に涙が止まらなかった事を何故か思い出しました。あれは酷く苦しいし、哀しいのです。この苦しみに一人で耐えねばならない恐怖、この一時が過ぎる事を待つ無力感。涙が出たのはきっと生理的な反応とか、そういうものだと音也は知っていましたが、きっとほんの少しの哀しみだって混じっているはずなのです。 音也の思考は正しく現実逃避ではあったのですが、体が吐き気にあえいでいるこの時間は、思考だけが手持無沙汰になるのです。落ちる華を見たくなかった音也が視線を真っ白なトイレの中から逸らせると、大理石調の床は音也の姿を緩く反射していて、現実を容赦なく意識させました。 ようやく、けほ、と最後まで吐ききった音也は、ふーと小さく息をつきました。清掃が行き届いた真っ白なトイレの中には真っ赤な花が所狭しと咲き誇っています。 トイレットペーパーを少し抜き取り、口元を拭きとった音也がゆっくり上体を上げると、センサーが反応したのか自動洗浄で瞬く間にトイレの中に水が流れ、あんなに沢山あった華達も瞬く間に流れていきました。まるで最初から何もなかったかのように。 次の瞬間、コンコン、とそんなノックが二度響きました。順番待ちの人がいたのだろうか、と音也は思いましたが、あれ?と思い直します。人気のないトイレは他に空いている個室がいくつもあるはずなのです。一体誰が何のために音也の入っている個室をノックしたと言うのでしょう。 「…音也?大丈夫ですか?」 音也の肝はその瞬間、冷えを通り越してすっかり固まってしまいました。どうしてここにトキヤが。いえ、トキヤは何故ノックなどするのでしょうか。 「ト、キヤ…」 まさか聞かれてしまったのでしょうか。音也は焦りました。吐いている、音を。気が付かれてしまったでしょうか。 一体いつからトキヤはそこにいたのでしょう。音也がトキヤは出て行ったと思ったのは勘違いで、まさか最初からずっとそこにいたのでしょうか。それともいったん外に出て直ぐに戻って来たのでしょうか。それともスタジオに戻ってから何分かして、音也の様子を見に来たのでしょうか。 一番最後ならいいのです。きっと吐いている音など、聞かれていたとしてもそれほど長い時間ではないでしょう。 しかし、トキヤはそうしていないという不思議な予感が音也にはありました。きっと幾らかの時間、音也が吐いていた音を聞いていた。そんな根拠のない確証が。 音也の頭の中で色んな言葉が渦巻きます。吐いている音なら大丈夫だ、と自分に言い聞かせます。もしかして、変な『もの』を吐いているのに気がつかれてしまったでしょうか。いいえ、それはないはずです。華を吐いただけのパサパサした微かな音では、ドアの外のトキヤが聞き耳を立てていたとしても何であるかは分かるはずが無いからです。 しかし誤魔化す言葉がすぐには出てきません。音也は慌てて考えますが、口を突いて出たのは音也自身でもそれはどうかなぁと思うような言葉でした。 「お、お弁当食べすぎちゃって!」 ああ、きっと怒られるだろうな、と音也は思いました。収録前に食べ過ぎて吐くとは何事です、だからあれだけ気を付けろと言ったじゃないですか、あなたはアイドルとしての自覚は無いんですか…云々。そんな言葉達がトキヤの声付きで音也の脳内を巡ります。それでも誤魔化せるならトキヤの言葉も甘んじて受け入れるべきでしょう。 「いや、あの、胃の、胃の調子が悪くて!でも唐揚げがおいしくって!」 音也の口は音也が望んでもいない言葉をすらすら吐き出します。寿弁当ごめんなさい、吐いてなんてないのに引き合いに出してしまいました今日も唐揚げ弁当は日本一の美味しさだったよ。音也は心の中で懺悔します。まさに思いがけずに口が滑るとはこの事でしょう。 「…そうですか」 はぁ、というトキヤの声に音也はびくりと身体を震わせます。個室のドア一枚を隔てたトキヤの声はくぐもっていて、少し遠く感じられます。次にどんな言葉がやってくるのか、音也は肩を強張らせます。 「…胃薬要りますか?」 トキヤの言葉は音也の想像に反して優しいものでした。それにすっかり気を抜かれてしまった音也はカチャリとドアの鍵を開け、外に出ました。 トキヤは音也の入っていた個室からはかなり離れた場所に立っていて、少し所在無さ気に、しかし心配そうな様子を隠しきれていない様子で、音也の方を見つめていました。 「ううん、大丈夫。吐いたらすっきりした…」 そうですか、ならスタジオに戻りましょう、と言いながら歩き出すトキヤの後ろを歩きながら、たぶんトキヤの事を考えるといけないんだろうな、そんな風に音也は思いました。 考えるから、吐き出したい想いが不意に膨れ上がって、こんな風に我慢できなくなってしまうのだろうと。 人の心とは、恋心とは、実に不思議なものです。自分の事なのに、心ほど自分の思い通りになりません。頭で考えた通りに心を操る事はどうしたって出来ないのです。特に音也は自分自身が心をコントロールする事は得意ではないと知っていましたし、そして心をコントロールする事が難しい事も、それが大抵失敗する事も、心の命じるままに進む方が健康にいい事も知っていました。 ならば吐かないためにはどれだけ頭で考えたってやはり無理なのでしょう。少なくとも音也はそうなのです。抑え込むにはトキヤの事を考える機会を減らさなければなりません。想いが膨れ上がり、恋心に胸が詰まって息が苦しくなるようなあの瞬間を減らすべきなのです。 トキヤの事を考えない。その一歩としてトキヤと会う機会を減らすべきかもしれないと音也は考えます。もちろんずっとではありません。少しほとぼりが冷めるまで、落ち着くまで――あわよくばもの吐きの治療法がすぐに発見される事が理想ですが――物理的にトキヤを遮断する事を音也は思います。 誰にも相談できない以上、もう音也にはそれくらいの案しか思い浮かばなかったのです。 「音也君、少し顔色が良くないように見えます…」 突然そう言われて音也は少しぎくりとしました。 「え?そうかな?」 「ええ、少し青白いように…少し痩せましたか?」 「そんなことないよー。あ、もしかして痩せた様に見えるのって、筋トレしてるからかなぁ」 「いえ、翔ちゃんも言っていました。音也君の元気が最近無い様に見える、って」 「ええーそんなことないよー」 とある歌番組の収録を終えた後の楽屋の一幕の事です。ちょうどそこには那月と音也しかおらず、次の仕事まで時間のある那月と、今日の仕事はこれで終わった音也の二人は那月の持参したハーブティーでのんびりお茶でもしながら何気なく世間話をしていたのです。 実の所、那月の指摘は正しいものでした。あの日、音也がトキヤの事を考えるといけないんだ、と気が付いてから、そこから音也の調子は坂道を転がるように悪くなっていたのです。 どうして原因は分かったというのにどんどんダメになっていくのでしょう。音也には全く理解できません。 あの時の決意を音也は守って、トキヤにも不自然にならない程度になるべく近づかないようにしていました。例えば、突然トキヤの部屋を訪ねていって、カレーを作って貰ったり、何気ない話をしたりすることも控えていますし、一緒の仕事でも必要以上にトキヤにくっつくのも控えました。だというのに、吐こうとする回数、実際に吐く回数が増えていくばかりでした。 これは一体どういうことだろうと焦る音也を尻目に中々事態は好転せず、音也がぐっと吐くことを堪える事も、そうして耐え切れずに華と宝石を零してしまう事も、最初は数日に1回だったというのに、今や1日1回まで増えてしまっていました。 悩み事があるということはつらい事です。そればかりが気にかかって、頭の中から離れなくなってしまうのですから。 考えると言う事は人間に与えられた最大の武器にして、最大の泣き所なのでしょう。どうして考えないようにしようとすればするほど、そちらにばかり考えがいってしまうのでしょう。どうして見ないようにすればするほど、あの深い夜色の髪色を見るだけで心臓が暴れてしまうのでしょう。音也は考え事を見続ければそこに囚われてしまうことも、その着地点が心にとっていいものではないという事も知っています。そして体にとっても酷く良くない事を。 音也は考え事をし過ぎないようにする術を幼い頃、身に着けることが出来ましたが、それを出来なかった子達を知っています。例えば、カウンセリングのおばさんがやってきても、どうしても体調が良くならなかった子。例えば、自分を苛め抜いて施設を去って行った子達。その後あの子達がどうなったのか音也は知りません。施設の先生に聞く事はなんとなく出来なかったのです。 自分を生き易くするのは環境と心持ち。子供の力では環境をどうにも出来ない事を音也は分かっていましたから、心の向く方を変えていく事は音也が自然に学んだものでもありました。大人になりかけている今、大人になっても環境を思い通りにする事は難しいのだと音也は知りましたから、やはりこれから先、どれだけ年を重ねても心持ちというのは変わらず大事なものなのでしょう。 けれど、どうしようもないことだってあるのです。音也はきちんとそこまで分かっているというのに、どうしようもできない事もあるのです。誰かに助けて貰わなければどうしようもないことが。心持ちというものだけではどうしようもない事があるのです。 それはまさしく音也の『もの吐き』という病なのです。もうその病の発症の日から今日でまるまる二週間経っていて、その解決方法は未だに分からないままです。 「ありがとう、那月。俺は本当に大丈夫だから」 音也はにっこり笑ってそう答えましたが、確かに音也の身体の調子は良くありませんでした。今も酷く体がだるいのです。 どうしてトキヤと会わないようにしているというのに、回数が減らない所か、増えてしまった上に、体調まで悪くなってきてしまうのでしょうか。それが音也には酷く理不尽な仕打ちを受けているように思えました。 この二週間、なるべくトキヤに会わないようにするのは酷く骨が折れる事でした。トキヤの部屋にも行かず、華と宝石を何時吐いても大丈夫なように、仕事が終わると真っ直ぐ寮に帰ることに専念していたのです。たまに気晴らしに自転車で走ってみることもありました。景色を楽しむ事は出来ましたが、やはり音也の心は何処かで吐いてしまう事に怯えてしまっていて、自転車を走らせる回数も自然と減ってしまいました。 しかし、トキヤもそんな音也を特に訝しんでいる様子もありませんでしたから、それはそれで音也の試みは上手く行ったのでしょう。トキヤも忙しい身分ですから、音也を気にかけている暇がなかったのかもしれないですし、元より音也の事をあまり気にかけていなかったのかもしれませんが。そう考えると音也の心はちくりと痛みを訴えました。 明日は病院の予約が入っています。そのことも益々音也を気落ちさせる原因になっていました。できればあの教授の所に行きたくはなかったのですが、仕事をする条件としてシャイニング早乙女から受診をすることは言いつけられていましたから、行かないわけにはいきません。音也はその事も――吐く回数を報告しなければならないと思うと、酷く憂鬱になってしまいます。あの教授と話すことは音也にとって酷く骨が折れる事でした。落ち着いた雰囲気に包まれた診察室は暴かれたくないものを暴かれる場所であり、逃げてしまいたいものが優しい精神科医の穏やかな言葉に乗せられて容赦なく引き吊り出される恐ろしい場所なのです。 「音也君、何かあったら相談してくださいね。僕で良ければ何でも力になりますから」 ピヨちゃんも音也君の力になりたいって言ってます〜。そんな風に続けて那月はカバンについていたピヨちゃんの小さなぬいぐるみを手に取り、その手をふよふよと振りました。 「ありがとう、那月」 音也はこういう時、那月は人の緊張を取り除く天才だなぁ、と思うと同時に、自分自身を本当に幸せものだな、と思います。 自分が困っている時、なんのてらいもなく力を貸してくれると言う友人を何人も持てるという事がいかに幸福な事であるかを音也はよく知っていました。人生に一人いればいい方です。本来ならばそこに両親や兄弟も連なるはずですが、音也にはそういう人物はもう一人もいませんでしたから、そんな友人が一人でもいる事、そしてそんな友人が五人いる事がどれだけ幸せな事かもよく分かっていました。 だからこそ、なればこそ、今回だけは、この事だけは音也には言えなかったのです。 音也のそれは音也だけの問題では無く、ST☆RISHの問題にもなり得ることでもありましたし、音也の病気の原因は音也の感情が起因するものとは言え、トキヤに密接に関係しています。それは音也が望まなくともグループとしての問題にもなり得ます。当然一番迷惑がかかるのはトキヤですし、音也が大切にしたい筈の何もかもを喪ってしまう可能性だってあるのです。 音也は未だ心配そうにしている那月ににっこり微笑むとジュースを買ってくるから、と言って楽屋を後にしました。実際の所、楽屋で那月が淹れてくれたハーブティーを飲んでいたのですから、音也の喉はちっとも乾いてはいなかったのですが、そうでも言わないとあの優しげだけれども、本質を見抜いてしまう瞳に何を口走ってしまうか音也自身にも分からなかったのです。 音也は楽屋を出て角を曲がりました。その奥の人気のない場所にひっそり自動販売機が設置されている事を思い出したからです。 コーラでも飲んですっきりしよう。音也はポケットから小銭を出して自動販売機に入れようとして、何処からか誰かの話し声が聞こえてきている事に気が付きました。 普段の音也であれば気に留めませんが、その声に聞き覚えがあるような気がして、自動販売機が設置されている場所よりももっと廊下の奥、その方を音也は覗いてみました。人影が二つ。それを見て音也の心臓がどきりと変なリズムで拍動を刻みます。 二つの影のうちの一つはトキヤでした。 トキヤの前には、幾分か背丈の低い、そして柔らかい凹凸を感じるシルエットがありました。もう一つの影は女性です。 トキヤの背中が壁になっていてその姿を全て見る事はできませんでしたが、その姿に音也は見覚えがありました。とある女性タレントで、確か音也もバラエティ番組で何度か共演したことがある、笑顔が可愛い女性です。 見てはいけない、と分かってはいるのですが、こういう時に限って何故思い通りに足が動かないのでしょう。音也の視線はぴったりと二人に向けられていて、足は地面に張り付けられてしまっているかのようです。 女性は何かを言って、トキヤも短く何かを答えています。距離があるせいでその内容までを理解する事はできませんでしたが、女性の赤らんだ頬、両手をぎゅっと握っている仕草、その表情、その立ち方全てが一つの事を示しています。 ――ああ、告白されているんだ。 音也にはすぐ分かりました。収録が終わって、マネージャーから次の仕事で変更が入ったからと打ち合わせのために楽屋を後にしたトキヤはその中で女性に話しかけられたのでしょう。トキヤがこの業界の女の人からもとてもモテる事は周囲も知っている事です。トキヤの美しい容姿も、そのストイックな姿勢も、人を惹きつけてやまないのでしょう。 そして次の瞬間、音也を襲ったのは猛烈な吐き気でした。それは今までの比では無いものでした。この前テレビ局で感じた吐き気が一番ひどいと思っていたのに、なんという事でしょう。悪い事には更に上にまだ悪い事があるものなのです。 「う、…っ」 だめだ、ここでは。音也は咄嗟にそれだけを思いました。 これだけの吐き気であれば、我慢しきれず吐き出した場面だったでしょう。しかし音也にはただただひたすらにこらえるという選択肢以外ありませんでした。ここはテレビ局の中、そして人の気配はあまり無いとは言え、人が行きかう廊下なのです。ましてや離れた所にはトキヤ。絶対に吐いてしまうわけにはいけません。 音也は身体を引いて、自動販売機にもたれるようにしてぐっと目を瞑って、息を止めます。おさまれ、おさまれ。そんな風に何度も念じながら、祈りながら。 どれくらいそうしていたのでしょう。ようやく吐き気がおさまって目を開けると、じっとりと嫌な汗をかいていました。那月を待たせてしまっているだろうから早く戻らなければ、と思いながら一息ついていると、何かの気配を感じて、音也はのろりと視線をそちらに向けました。 「…音也」 「…ト、キヤ?」 何時の間に。音也はそう思いましたが、それは実の所、トキヤがあっという間に音也の所にやって来たのではなく、音也が長い間そこで吐き気を我慢していたせいだったのです。しかし我慢する事に集中していたせいで時間の感覚が無くなっていた音也には突然トキヤがそこに現れたように思えました。 「あなた、どうしたんです?すごい汗ですよ。それに顔色が…」 何時もは切れ長の涼しい目元をしているトキヤの目は音也を見つめて真ん丸になっていました。周囲にはトキヤの姿しかありません。あの女の人との話は終わったのでしょう。トキヤはどう答えたのでしょうか。 「大丈夫」 音也は固い声色で言いました。どうにも何時ものように元気な声色を出すには、心の元気も体力も足りません。はー、と吐き出した音也の息は少し震えていましたし、背中には嫌な汗をじっとりとかいていました。勿論、握った手の中にも汗をかいています。 そんな音也を見てトキヤはどう思ったのでしょう。ぐ、と息を飲んだような音が聞こえて音也がもう一度顔を上げると、何故か音也よりも必死そうな顔をしたトキヤの姿がありました。あれ、そんな風に思う間もなく、トキヤは音也の肩を痛いほどの力で掴んだのです。 「大丈夫って、大丈夫なわけがないでしょう!?あなた、前にもトイレで吐いていた事あったじゃないですか!」 「だから…!」 大丈夫なんだよ、音也は心の中でそんな事を思います。 そうなのです、大丈夫でなければいけないのです。大丈夫以外に音也にはどんな状況も許されはしないのです。 「痩せたんじゃないですか!?痩せたでしょう!」 しかしトキヤの追及の手は緩みません。掴まれている肩にトキヤの指が食い込んで、少し痛いほどです。トキヤの何処にこんなに強い力があったというのでしょう。じわじわと音也の心に小さな焦りが生まれます。それはゆっくりとその大きさを増して、音也の足首を掴んで這い上がってくるようでした。 どうして。音也は思います。どうしてこうなってしまったのでしょう。 体重が減ったかどうか音也は知りません。何故なら体重計に乗っていないからです。しかしズボンのベルトを止める時に少し隙間が出来るようになったな、とは気が付いていました。服の中でほんの僅かに体が泳ぐような感覚にも気が付き始めていました。 しかしそれを音也は認めるわけにはどうしてもいかなかったのです。食欲がなくなってきていた事も、夜眠りが浅くなって何度も目が覚めてしまうことも、なんだか体が重いような気がすることも全部全部気がついてはいけないことなのです。音也が気が付いてはいけないことだったのです。 もの吐きのせいで、音也が勝手に好きになってはいけない人を好きになって、吐き出せない感情のせいで、何時もの一十木音也に『なれない』ことなど、あってはいけないことなのです。 どれだけトキヤの事を好きでも、音也の今を、トキヤの一番の友達として、トキヤの傍で、同じメンバーとして歌を歌うには、トキヤの事を考えてもいけないし、トキヤの事で心を揺らしてもいけないのです。 だから。 「ほっといて…!」 気が付いた時には、音也はそう叫んでいました。肩を掴んでいたトキヤの手を振りほどくと、音也の足は僅かにたたらを踏みます。それは音也の振りほどく力が強すぎたせいなのか、両足で立っていられないほど弱っているせいなのか、音也自身にはちっとも分かりません。分かりたくもありませんでした。 「音也?」 「もうほっといてよお…」 目の前のトキヤの姿がぐにゃりと歪みましたが、かろうじて涙を流す事だけは堪えました。だって泣いてしまったらトキヤに迷惑がかかります。トキヤからしてみれば友人の体調を心配しただけなのに、その友人に泣かれてしまっては困るに決まっているのです。それに一十木音也には涙なんて似合いません。 ――どうしよう、もうだめだ。 音也は走り出しました。背中には慌てたようなトキヤの声。しかし音也は振り返らずに走りました。何処に行くつもりなのか音也自身も分からないまま走りました。ぼろりと堪えきれなかった涙が瞳から落ちて頬を濡らします。しかし音也にはもう何が悲しいのかさえ分かりません。 悲しい、苦しい、気分が悪い、哀しい、つらい、こわい、どうしよう、どうしたらいいんだろう。 ごほごほ、と走りながら咳をすると、ぽとりと宝石が床に落ちます。幸いにも周囲に人はいません。当てもなく走ったせいで、テレビ局の奥深く、殆ど使われないスタジオの方に走ってきてしまっていたのです。 音也の唇から地面に落ちていく幾つもの宝石。走っているせいでそれらはもう後ろの方に転がって点々と小さく光っています。それらを無視して走り抜いてやろうかと音也が思ったのは一瞬で、すぐさま他の誰かが自分のように苦しんでしまうのはいけないと、立ち止り、引き返し、宝石を拾ってポケットに入れます。 走ってきた方にまだいくつか宝石は落ちていて、音也はとぼとぼと走ってきた道を戻って、屈んでは一つずつ宝石を拾いました。 もう走っていた時の勢いなど音也の中からはすっかり抜け落ちてしまっていて、ゆっくり宝石を拾う傍からぼたぼたと音也の涙が床に落ちていきます。音也は初めてその時、自分を惨めだと思いました。 とても惨めだと、思ったのです。 【後編に続く】 |