【!】アニメ、ゲーム設定ごちゃまぜです。








 カーテンを透かして、朝の光が部屋に差し込んできています。外から聞こえるのは少しの鳥の声。差し込む陽の光は強いというほどの事は無く、外は薄曇りの気候という事が知れます。ぼんやりとした、輪郭が淡い朝の始まりではありましたが、希望に満ちた一日のスタートになる時間です。少なくとも音也にとっては朝とは何かが始まる予感に溢れた――そんな希望を包み込んでいる時間です。
 しかし朝だというのにその部屋――音也の部屋の中はしんと静まり返ったままでした。
 時折部屋に響くのは、ヴヴッというスマートフォンが震える虫の羽ばたくような低い音だけです。その音の発信源であるスマートフォンは部屋の真ん中にあるベッドの上の枕の隣で充電コードに繋がれたまま、明るくなった電池残量100%を示しているディスプレイには着信とメール、インスタントメッセンジャーの通知が何度か交互に表示されて、その後は再び真っ暗になります。

 そのスマートフォンの隣、枕に覆いかぶさるようにして、ベッドの中心には大きな毛布の塊がありました。その塊がゆっくりと微かに上下する姿はその中に呼吸をしている人が居る事を示しています。時折、もぞもぞと身動ぎする以外は他にその塊に大きな動きはありません。なんせ毛布から頭さえ出ていないのです。思い出した様に聞こえるのは、コンコンという小さな咳のようなくぐもった音が毛布の中から届くくらいのものでした。
 しかし次の瞬間、パッと毛布の隙間から何かが飛び出して、小さな音を立てながら床に落ちました。ぽてんという気の抜けた少し重たい音と、コロコロという固くて少し軽い音です。それは一体何なのでしょうか。

 その部屋は何の変哲もない部屋です。ちっともおかしい所なんて無い、普通の部屋です。壁はクリーム色に近い白でしたし、キッチンには出しっぱなしになったままの大きなマグカップが一つ置かれ、カーテンレールには室内干しされた厚手のパーカーが1枚あるだけの、何時もと変わらない音也の部屋です。事務所から宛がわれた、独り暮らしにはちょっと広すぎるくらいの音也の部屋です。

 しかしそれは床を見なければ、という話なのでした。

 普通の床であれば、そこは落ち着いた木目調の色合いに加工されたフローリングがあるでしょう。そこは人がリラックスできる柔らかな色合いになっているでしょう。もちろん音也の部屋の床だってそんな作りになっています。それこそが、音也が何かの折に聞きかじった事のある色彩学だとかそういうものを引き合いに出すまでもなく、昔から人間が長い年月を生きている中で気がつき、作り上げてきた落ち着く家と言うものの姿なのでしょう。
 しかし今、音也の部屋の床は当たり前にあるはずのフローリングの色ではありませんでした。そこには普通の家の床であったならば、おおよそありえない鮮やかな色彩が広がっていたのです。

 床一面には華――それは花弁の開ききった今が盛りのガーネットであったり、ぽってりとした重たそうな赤いダリアだったり、血の色によく似た小ぶりのアネモネ、まるで悲しげにこうべを垂れているかのようなベコニア――や、その他には宝石――まるで柘榴のような色をしたガーネットに燃えあがる炎にも似たルビー、つるりとした光沢を放つトルマリン、深く沈み込む様な血の色をしたヘリオトロープ――が散らばっていたのです。

 床一面に広がる赤色の景色はぼんやりと朝日を上手く取り込めないままの部屋の中で異様なまでの色を発しています。それどころかほんのりと天井までもを赤く染めあげているのです。そうして天井に映される色は弾き返されて再び室内へと降り注ぎ、部屋全体がぼんやりと赤くさえありました。それは10人が10人とも同意するほどの、とても異様な光景でした。

 もぞり、とようやくベッドの上の毛布の塊が動きました。それは太陽が地平線から顔を出してから、初めてその塊に大きな動きがあった瞬間でした。
 床に広がる華や宝石たちと良く似た色合いの髪が毛布と枕の間からのっそりと姿を現しました。そしていくらかもぞもぞと動いた後、頭は毛布から完全に出て、その頭の持ち主――音也は酷くぼんやりとした様子でのろのろと床に視線を落としました。その目尻は真っ赤に染まっています。
 そうして床一面の赤色を眺めた後、音也はまた毛布の中にのろのろと顔を戻し、そうして暫くの間、動きませんでした。動かなかったわけではありません、音也は動けなかったのです。こわくて、くるしくて、混乱して、疲れてしまって、もう動くことが出来なかったのです。

 昨日、トキヤが告白されている光景を見て、逃げ帰ってきてから、音也の唇からはぽろぽろと華と宝石が落ちて止まらなくなりました。どれだけ吐いても吐いても、どれだけ歯を食いしばっても食いしばっても、どれだけ息を止めて止め続けても『もの』を吐くことを止めるのは無理だったのです。どれだけ咳をしても一向に収まらず、宝石は床に乾いた音を立てて落ち、喰いしばった歯の間から花びらが溢れて、溢れ返ってしまいました。
 こうなっては音也が見つけた吐かずに済む方法など何の役に立ちません。たった一つの吐かずにいられる音也の武器は、ことごとく音也自身によって破られていきました。ぐっと喉に力を入れて、飲み込んでしまうなんてとんでもないことです。何故なら今まで音也がやっていたように吐き出す前に喉の深い所で飲み込もうとしても、吐き出す力が思いのほか強く、全く飲み込めなかったからなのです。それどころか、華や宝石が喉に詰まってしまって、咳き込んだ弾みでまたもや大量のものを吐く羽目になってしまったのです。たった一つのやり過ごし方に頼っていたその時の音也の混乱ぶりと言ったら、もうそれはそれは言葉に表すことの難しいことでした。

 それからどうやって音也が寮の自室に戻って来たのか、音也はよく覚えていません。
 気が付いた時にはこのベッドの中で毛布を被って身体を丸めていました。携帯電話も、鞄もありましたから、何とかきちんと楽屋に戻ってテレビ局を後にしたのでしょう。那月はどうしたでしょうか。那月にきちんと声を声をかける事は出来たでしょうか。走り出した音也が置き去りにしたトキヤは、音也が楽屋に戻った時、その場にいたのでしょうか。どうだったのでしょうか。音也は何も覚えていません。
 ベッドの傍に放り投げられるように置かれた鞄の中には華と宝石が詰め込まれるように入っていましたし、毛布の中に入った音也が気が付くと、近くにはぐしゃぐしゃになったマスクもありましたから、吐いたものを落とさないようにしながらとりあえず吐いたものを鞄に詰め、なおかつ誰にも見られないようにマスクをして、出来る限りの注意を払って部屋に戻ってきたのだろうとは想像がつきます。しかし音也にはその記憶も何処か遠い場所に落としてきてしまったかのように何も覚えてはいませんでした。鞄をベッドの傍に置いた記憶も勿論、毛布の中に潜り込んでから外したであろうマスクの事も。
 一晩どう過ごしたかの記憶も酷くあやふやで、気が付けば空が白んでいて今になっていたという有様です。なんだかタイムスリップをしてしまったかのようだ、と音也はままならない頭の中でぼんやり考えました。

 ヴ、ヴ、とまたスマートフォンが震えます。一体さっきから何度も何度も誰だと言うのでしょう。今日は元々音也はオフでしたし、本当は事務所から台本を届けてもらう予定でしたが、それはさっきかろうじてキャンセルのメールを送信しました。言うまでもなく、とても受け取れる状況では無かったからです。
 だから音也にこんな早朝から連絡を入れる人などいるはずがないのです。よしんば誰かからコンタクトがあったとしても、今の音也では何をするにしても無理でしょう。
 コンコン。咳が出て、スマートフォンを握りしめていた右手の上にポトンと赤いガーネットが落ちました。それはそれは美しいガーネットでしたが、今の音也にとってはどれだけ価値のある宝石でも、それは招かれざる客なのです。出来れば見たくないものなのです。
 それを床下に落とすために音也が右手ごと宝石を払うと、スマートフォンも手の中から滑り落ち、床に嫌な音を立てて落ちていきました。真っ赤な華や宝石で埋もれている床です。紅い景色に埋もれたスマートフォンなど拾う気になどなれなかった音也はそれをそのままにしておこうと投げやりな気持ちで思いました。すると音也自身、今までさっぱり意識していなかったのですが、左手に何かを握りしめている事に気が付きました。
 一体何なのだろうとゆっくり開いてみると、音也の手の中には一枚の名刺が握りしめられていました。例の教授のものです。音也が2週間前に病院を訪れた時に受け取り、一応財布の中に入れていたものですが、きっと昨日の夜――テレビ局を出た夕方かもしれませんが――心細さのあまり思わず握っていたのでしょう。それも音也の記憶にありませんでしたが『何でも困ったことが起こったら時間を気にせずすぐに電話をかけてもいいからね』と言ってくれた教授の言葉に昨日の夜、音也が甘えなかったのは確かです。
 電話をしようか。音也は思います。しかしすぐ後には、今日の診察は9時に予約を入れてるし…、とも思います。音也の心は右に左に、あっちにこっちに、振り子のようにゆらゆらと揺れます。きっとこれは今すぐにでも電話をするべき場面なのだとも音也は分かっています。なんせ止まらないのです、ものを吐くことが。10人居れば10人が今すぐ電話をしろと言うでしょうし、その内の何人かは今の音也が布団にもぐったままなのをこっぴどく叱るでしょう。状況はすっかり音也の意志を離れてしまっていて、どうしようもなくなっているのです。これでは電車に乗って病院に行くことはおろか、タクシーを呼んで病院に向かう事もあやしいものです。
 しかし電話をしてどうするんだろう。混乱して誰か誰かと助けを求めている、混乱した心とは対照的に、頭の中の別の場所にいる酷く冷静なもう一人の音也がそんな風に考えているのも事実でした。
 治療方法の無い謎の不思議な病、治す方法は言いたい事をただ言うだけ。言えないのなら少しずつでいいから言えるように練習するしかありません。
 ならば音也は――『もの吐き』を重症化させてしまった音也は――あの優しそうな教授にこう言うべきなのでしょうか。

 トキヤが好きなんです大好きなんです男同士なのは分かっていますそんな恋の形はこの国では通用しない事も知っていますだから苦しいんですだから言えないんです言ってしまって迷惑をかけるのも怖いんです友達だったのにその場所を喪う事も怖くて俺は仕方ないんですだから身がすくんで言えないんです。俺が吐き出しているのは綺麗な想いなんかじゃないのにこんなにドロドロしているのにこんなに綺麗なものを吐いているんですどうやったら止まるんですか俺の抱えているのはこんな綺麗なものでもなくて青空に映える真っ赤な華や太陽の光を受けてきらめく美しい宝石達を吐いてしまう資格なんてないような気がするんです。お願いです華が宝石が俺の想いを責めるように美しく輝かないでいられる方法を教えてください何だってしますトキヤとこのままでいられるのなら――このままアイドルでいられるのなら。

 そんな事を言えるはずがありませんでした。絶対に言えるはずがありませんでした。言いたい事を言う。それは音也がトキヤに恋心を伝える事に他なりません。それは音也が楽になって苦しみをトキヤに丸投げする事とどう違うと言うのでしょう。言えない言葉をぶつけて音也が楽になってしまう事とどう違うと言うのでしょう。好きな人を困らせて生きる事のどこを恋だと言うのでしょう。そんなもの、恋と言う名前で自分が楽になるのとどう違うと言うのでしょうか。あの優しいトキヤに助けを望んでいる振りをして、何かを無理強いする事とどう違うのでしょうか。
 音也が抱えているのは確かに恋心でしたが、卒業オーディションで歌ったようなキラキラしたものを思い出そうとしても、今の音也にはどうしても無理でした。中学生の頃、音也に恋心を告白してくれた女の子たちから見えたものは、恋をして強く相手を望んで、たくさんの感情が生まれたり増えたり変わったりする、そんな綺麗で甘酸っぱくて、ほんの少し切ない感情たちです。切なくったって、そこにはワクワクもドキドキも、恋の苦しさと同じくらい、いえ、それ以上に詰まっていることでしょう。
 音也がトキヤを好きになった時、アイドルを目指しているだとか、男同士だとか、そんな現実的な考えに至る前、一番最初に音也が確かに感じていた恋のワクワクやドキドキは今は一体何処に逃げて行ってしまったのでしょう。逃げたのではなく音也は捨ててしまったのでしょうか。そんなほろ暗い穴を覗き込む様な未来を音也は望んでいないというのに。

 コホン。また音也の喉から乾いた咳が落ちて、唇から大振りの真っ赤なポビーが落ちました。
 その大きな華が沈黙したまま音也を咎めるかのように見返してきているのを見て、音也の何かが確かに限界に触れたのを感じました。それはまるで並々と水が注がれたコップにぽたりと一滴水を落として、堪えきれずに水滴が次々とグラスから溢れてしまっていくように。
「…ッ!なんで、なんでっ…!!」
 音也は力いっぱいベッドの上の花を振り払いました。気だるげな仕草ではなく、めいいっぱいの力を込めて。
 しかし音也の悲しみや苦しみに反して、それは床下の他の華達の上に着地して、ポスンと言う気の抜けた音しか立てませんでした。本当に間抜けとも言える音で、めいいっぱいの音也の力を受けても、心いっぱいの音也の苦しみや悔しさを受けても、まったく響いてはいませんでした。
 音也はその様をみて、瞬間的に膨れた大きな感情のうねりがまた瞬間的にしぼんでしまったのを感じました。まるで空気を入れ過ぎた風船がパンと弾けてしまったかのようです。そうして、次にむくむくと膨れたのは哀しみでした。それは説明のつけようのない、底が見えない哀しみです。哀しみが膨れるのを真似しているかのように、音也の目もみるみる波立ってきます。すん、と鼻をすすると鼻の奥にツーンとした痛みを感じました。目の奥がとっても熱く、じんとして、胸の奥がつかえたかのように、くんと喉が鳴りました。
 このままものを吐き続けてこの部屋から出られないイメージが音也の脳内をちらつきます。歌も歌えず、しんとしたこの部屋の中でたったひとり、赤い華と赤い宝石に囲まれるイメージです。それはとても寂しいイメージです。

 好きになって、ごめんなさい。

 思った瞬間、音也の瞳から熱い滴が零れ、ひっく、という引き攣れた声が漏れました。
 音也は今この瞬間をまるで罰のように感じていました。いえ、もうこれはきっと罰なのでしょう。それ以外に考えられません。こんな事になってしまったのは、こんな想いを抱えてしまった罰なのです。遠い昔、母親と訪れた教会で神父様が語っていた罪の色。許されるには懺悔が必要です。教会の中にあったあの小さな懺悔室。薄暗くて、木製の格子の向こう側の神父様の顔がほとんど見えないあの部屋。罪の告白をして悔い改めよ、さすれば神は許すであろう。きっとそんな風に許しを求めなければならないのでしょう。
 しかし音也が許しを請いたいのは神ではありません。向日葵の咲く夏の盛り、音也は現実と神の不在を知りました。今の音也には人並み程度の神への知識はありますが、信仰心はありません。音也が許しを請いたいのはただ一人、トキヤなのです。トキヤにしか音也の懺悔は捧げられないのです。そしてそれを裁くのも、許すのもトキヤしかありえないのでしょう。

 その時、ピンポーンと言う音が音也の耳に届きました。ピンポーン。また一回。
 誰だろう、と音也は思いましたが、しかしそれを確認する必要はありません。音也に出るつもりはなかったのですから。ピーンポーン。今度は2回連続。まだ聞こえます。どうしても出て来いと言うことなのでしょうか。
 しかし出てどうすると言うのでしょうか。もの吐きが収まらない上に部屋はこの有様です。よしんば部屋に入れずとも、玄関に立たれてしまえばこの部屋の状態が見えてしまいます。そんなの無理に決まっています。訪問者も音也がこのまま黙って毛布にくるまっていれば、きっと立ち去ってくれるだろう、とそんな風に考えた音也が毛布の中でますます丸くなった、その時でした。

「音也、いますか?」

 玄関のドアの向こうから響く、くぐもってはいますが、はっきりとした声に音也は今まで丸まろうとしていた事も忘れてがばりと身を起こしました。何故トキヤがここに。まだ朝が早いとはいえ、今日は仕事ではないのでしょうか。オフなのでしょうか。しかしどれだけ記憶の水底をさらってみてもトキヤの今日の予定は思い出せません。そうしてようやく音也は最近トキヤとそんな雑談も含めて、殆ど会話をしていなかったのだと思い至りました。
「トキヤ…」
 呆然と音也が玄関の方を見つめながら呟くと、ドンとドアを叩く音が一回響きます。まるで音也の呟いた言葉が届いたかのように。
 音也は驚きました。普段トキヤの部屋に遊びに行った時にドアの外から声を出す音也を『近所迷惑になるからやめなさい』と注意したトキヤが、声を出すだけでなく、明らかに近所迷惑になりそうなドアを叩くと言う事をしているからです。どうしたというのでしょう。まったくもってトキヤらしくありません。
「音也?いるんでしょう?開けなさい」
 いない。いないよ、トキヤ。俺はいないんだよ。
 音也は再び毛布を被ってうずくまりました。そうしてさっきよりも身体を小さくするように益々丸まって、まるで身を隠すかのようにしながらただひたすら念じます。早くトキヤが立ち去ってくれますように、と。
 音也の願いが届いたのでしょうか。どんどんどん、と強くドアを叩いていた音はいつしか止み、音也の部屋の中はさっきまでと同じ静けさが戻りました。きっとトキヤはうんともすんとも言わないドアに痺れを切らして立ち去ってしまったのでしょう。音也は居留守を使ってトキヤを追い返した罪悪感よりも、それを覆ってしまうほどの安心感にふっと息を吐きます。
 しかし。玄関のドアのその向こう。何かが僅かに身じろぐような気配を音也は感じました。いえ、感じたというのはおかしいでしょう。音也から玄関は遠く離れていますし、玄関の向こうと音也の間にはドアと空間と毛布があるのですから。しかし音也は感じたのです。何かが躊躇しているような空気を。それは人が感じ取れる気配の匂いというものなのでしょう。

「…私には言えませんか?」

 ぽつりと響いてきた声はそれほど大きくないというのに音也の耳に自然とすんなりと届きました。ドアの向こうでトキヤが音也音也と叫んでいた時よりもずっと小さな声は独り言にも聞こえましたが、それは確かに聞こえました。ドアを隔てて、空間を隔て、毛布を隔てて、くぐもっていた言葉は音也の鼓膜を揺らし、頭の中で意味のある日本語として形をつくり、そうして最後に音也の心を強く、強く、揺さぶりました。トキヤ、トキヤ。音也の心の中はトキヤへの気持ちでいっぱいになってしまいます。
 音也は勢いよく毛布から体を出しました。そして何かの力が加えられたようにふらふらとドアの方に近寄ります。そしてドアは開けないまま、もちろん部屋の中にいるともトキヤに教えないまま、そっとドアに手を触れさせました。ドアの薄い素材一枚隔てればそこにはトキヤが居るのです。触れたスチール製のドアはひんやりと冷たいというのに、何故かそこにほんのりと暖かい温度を感じるのは何故なのでしょうか。
「昨日あなたを怒らせた事は謝ります。しかし私は、音也、あなたがいつも通りでいてくれないと調子が狂うんです」
 静かな声でした。少し気落ちしているように聞こえます。きっと音也がベッドの中に篭ったままだったならば、こんなトキヤの声の調子にだって気が付けなかったでしょう。トキヤはドア1枚のすぐ向こうに音也が居る事を知りません。この距離を知っているのは音也だけ。今、音也とトキヤの距離は限りなくゼロに近いのです。
 ――トキヤ。
 音也はトキヤに心配をかけずに離れるなど無理だったのだと気が付きました。トキヤの言葉にそのことにようやく気が付きました。
 音也がどれだけ頭を捻って考えた所でトキヤはどうあっても気が付いてしまうのでしょう。注意深いトキヤの事ですから、普段からおおらかと公言して憚らない音也では彼を誤魔化せないのも当然の事かもしれません。
 そもそも、好きだけど離れたい、というどっちつかずの気持ちを持てあましていれば、なおさら気取られずに離れるなんて無理だったに違いありません。学園にいた頃から音也が少し落ち込むことがあるとあっさり気が付いて、時にはそっとしておいてくれたり、時にはアドバイスをくれたり、時には行動を以て、音也を気遣ってくれたトキヤの事です、音也が隠そうと余所余所しくすればトキヤが音也の異変を知る事などお手のものに違いありません。

「体調が悪いんでしょう?嫌なら私を部屋に入れなくてもいいですから、せめて声くらいはきかせてください。大丈夫なんですか?……心配なんです」
 それは囁くような、少し苦しそうな、それでもひどく優しげな声でした。

 ひっく、と声が漏れました。
 音也は必死に声を零さまいと口に手を当てましたが、それはもう止まりませんでした。息を吸い込むのをやめようとすればするほどひっくひっくとまるでしゃっくりのような音が出て、吸った息を吐くのをやめようとすればするほど、吐く息は声を伴って落ちていきます。
「ひっ、ふ…うっ、」
 ぼろり、ぼろり、と音也の瞳から涙が溢れ、床にたんたんと軽い音を立てて落ちていきます。しまった、どうしよう、ここにいるのがバレちゃう、と音也は思いましたが、もう遅いのです。
 ドアの向こうでトキヤが息を飲む音が聞こえました。ドア1枚しか間にない分、それはもうしっかりと。
「音也?そこにいるんですか?」
 音也は思わず首を振りました。それはドアの向こうのトキヤに見えるはずもないと言うのに、それでも幼い子供のような仕草を繰り返さずにはいられませんでした。いないよ、いないよ、トキヤ。だから帰っていいんだよ。俺を身勝手で薄情な男だって思っていいんだよ。そんな風に強く思います。
 嗚咽は益々その音を増やして、誰が聞いてもきっとこれは泣き声だというほどに音也の声はしっかり出てしまっていました。音也は小さく丸まるように背中を少し折り曲げながら、ドアの前でずるずるとしゃがみこみます。首を振りながら。頭の中でぐるぐる湧く言葉を抑えつけるように。

 好きになってごめんなさい。
 しゃがみこんだ音也が思ったのは、さっきと同じこの言葉でした。
 こんな風に心配をかけてしまって、上手く誤魔化せないまま、口に出せるものと言ったら、言葉の代わりに赤い華と宝石ばかり。音也の中で高く高く積み上がってしまった感情たちばかり。勝手に好きになって迷惑をかけるばかりです。

「音也、ここを開けなさい!」
 ドンドンドン。三回ドアが叩かれます。その音はあんまりにも激しすぎるので、自分の事は棚に上げて、音也はトキヤの手が心配になってしまいました。アイドルの資本としての身体をとても大事にするトキヤです。寒い時期にはその指一本一本にきちんとハンドクリームを塗って、指先1つまで気を抜かないトキヤが力加減も忘れてドアをドンドン叩いているのです。手が赤くなるだけならいいでしょう、しかし傷になったり、痣になったら大変です。
 トキヤ、だめだよ。そんな風に音也が思わず口に出そうとすると、カチャカチャと音が聞こえました。それがトキヤが合鍵で部屋に入ろうとしている音だと、音也が気が付くまで少し時間がかかりました。
 もしも何かがあった時のために、音也が合鍵をトキヤに渡したのはマスターコースを終了して単身寮に移った後、すぐのことです。鍵を渡した時のトキヤの顔と言ったら酷くポカンとしていて、鍵と音也を見比べた後『まさか貴方、自分が鍵を無くした時のために私に合鍵を渡したんじゃないでしょうね』と言いましたが、そんな下心のあった音也が誤魔化すようにえへへと笑うと、トキヤが深いため息をついていたことを覚えています。
 トキヤは今までその鍵を音也の承諾無しに使った事は一度もありませんでした。それどころかそのカギを使ったのも今日が二回目なのです。
 一度目は音也が風邪をこじらせてベッドから起き上がれなくなった時、朦朧とする意識の中でトキヤに助けを求めた時、ただそれのみです。その時も『来て』と音也の許可である言葉をスマートフォンのメール越しに受けとってからのものだったはずです。なのに、どうして今、音也が入ってこないでほしいと言う気持ちを表現しているのに、いえ、音也は頑なに不在であると言おうとしていたのに、トキヤはそんな音也の気持ちを無視するようにドアを開けているのでしょう。

 ガチャリと鍵が開く音が聞こえました。
 そのドアからトキヤが入ってくるのと、音也が泣きながら咳をコンコンと零し、真っ赤なバラを唇から掌の上に落としたのはほぼ同時の事でした。

「音也、あなた…」
 焦ったように部屋に入ってきたトキヤが音也を目の前にして目を見開いて立ち止ります。音也の顔を見て、それから掌の上を見て、その視線はピタリと薔薇から外される事はありません。

 ――ああ、おしまいだ。
 音也は呆然とトキヤを見つめたまま、そんな風に思いました。

 とうとう知られてしまったのです。よりにもよってトキヤに。驚きですっかり音也の涙は止まっていましたが、瞬きを数回繰り返すと、目尻に溜まったままの水滴が涙となって頬を滑り降りていきました。
 それを見たトキヤの顔が不意に歪みます。音也が吐いたものを見て、全てに気が付いたに違いありません。音也はこんな奇病にかかった自分をトキヤが嫌悪したに違いないと絶望的な気分になりましたが、よくよくトキヤを見つめているとどれはどうやら違うらしいことに気がつきました。
 どうやらトキヤの表情は音也の事を嫌悪している表情では無いようなのです。それはまるで苦々しいものを口にして、それをきちんと食べられない自分を悔しがっているかのような――とにかく自分の無力さに苛立ちを感じているような、そんな表情でした。
 これは一体どういうことでしょうか。どうしてトキヤは華を吐く音也を見て、嫌悪感をたっぷり表情に表したりしないのでしょう。テレビでも新聞でもラジオでもあんなに騒がれて、週刊誌には健康な人の不安を何倍にもするような事が書かれていたのですから、普通の人であればまず驚くに違いありません。そしてきっと次は正体不明の病に対して、大なり小なりの拒絶反応が出るはずなのです。それが人としてごく自然な反応でしょう。
 しかしトキヤはあろうことか未だしゃがんだままの音也に一歩近寄りました。そうして音也の手首をぎゅっと掴んだのです。よりにもよって薔薇をもった右手の方を。音也にとっては驚くなんてレベルの話ではありません。
「トキヤ!だめ!華に触れちゃ…!感染しちゃう!」
 音也は焦って、いえ、それは必死と言った様子で言いました。もの吐きの患者の吐き出したものに触ってしまいそうな距離で手を差し出すなどとんでもない事です。トキヤは音也の手首を掴んでいるだけでしたが、もしも音也が掌の中の華を落として、トキヤの手に当たってしまうような事があったらどうするというのでしょう。トキヤを感染させるなんてとんでもないことです。
 しかしトキヤは音也の言葉をまるで理解していないかのように、いきなり音也を手首ごと引っ張り上げて立たせると、まるで抱きしめるかのように身体を近づけました。友人同士ではおおよそありえないと思えるほどの近い距離に目を丸くする音也に構わずに、トキヤはこんな風に言いました。どうして貴方は、と。酷く苦しそうに唇を開きました。
「何を我慢しているんです!あなたは何時も我慢して我慢して…!そうやって独りで抱え込んで、こんな、こんな肝心な時に私を頼らないんです…!」
 どうしてトキヤがこんなにも、こんなにも苦しそうな顔をしているのでしょう。音也が考えてみたってさっぱり分かりません。
 しかしこれだけは分かります。トキヤはすぐに音也が『もの吐き』の感染者だと気が付き、しかしそんな音也を嫌がっている訳でも怖がっているわけでもないという事です。
 すっかり毒気を抜かれた音也は、トキヤのその美しい顔を見つめながら、呆然と答えました。俺は、と一言零すと、震える唇はするりと次の言葉を続けました。

「好きな、人が」
 ――好きな人がいるんだ。すごく、すごく好きな人が。

 どうしようもなく、我慢できなくなったのです。
 音也の好きな人は、努力の人で、困っている人を放っておけない人で、朝焼けの前の一番深い色の美しさが形になったような人で、周りをよく見て色んなことを判断できる人で、放っておいてほしい時はそっとしてくれるのに本当に助けて欲しいと思っている時にはこんな風に必ず助けてくれる――そんな素敵な人です。そんな素敵な人を目の前にして、思わず言わずにいられないほど、音也は生半可な気持ちを抱えているわけではなかったのです。

 掠れた声で呟いた音也の言葉を聞いて、トキヤの顔色が目に見えて変わりました。それを音也はまた不思議に思います。トキヤを安心させたくて、トキヤの質問に答えたくて、何を我慢していたのか精一杯ぼかしながら言ったというのに、どうしてまだトキヤはさっきよりもずっとずっと苦しそうなのでしょう。
「誰の事をそんなに好きなんです…。こんなにきれいな華を吐いてしまうくらい…」
 トキヤが音也の右手を包み込み、そんな風に言います。トキヤがさっきよりも華を触ってしまう危険の高い仕草をしたことに音也はひやっとしましたが、頭の中はさっきのトキヤの言葉でいっぱいでした。

 綺麗でしょうか、この華は。うつくしいでしょうか。この想いは。
 音也はこの華を吐き出した時から、これをとても厄介なものだと考えていましたから、そんな事など全く考えたことはありませんでした。むしろ華が大きければ大きいほど吐く時の苦しさは増しますし、宝石が透明な美しさに輝くほどその宝石の中に音也の哀しげな顔が映っていましたし、それらの鮮やかな赤を毒々しいものであるとさえ思っていました。
 しかしトキヤが、トキヤ自身が、音也の零した想いの欠片を少しでも綺麗だと思ってくれるのであれば、音也も少しだけ報われたような気になりました。

 そんな風に思う音也の目の前のトキヤは何故か悔しそうでした。とってもとっても、今まで音也が見たことが無いくらい、どんな時よりもひどく悔しそうでした。音也の腰に添えられていたトキヤの手にぐっと力が篭ったのを音也は感じます。
「…誰なんです、音也」
「なにが…?」
「貴方にそこまで華と宝石を吐かせる相手です」
 トキヤだよ。トキヤなんだ。音也はそう言ってしまいたい気持ちが沸き上がるのを感じました。が、しかし音也に言えるはずがありません。音也はうつむいて、一言、言いました。
「ごめん、トキヤ…」
 玉虫色の回答。昔、トキヤに使い方を教えて貰った言葉です。あれは何時の事だったでしょう。何気なくテレビに映っていた政治家の発言に対してトキヤが言った言葉だったでしょうか。
 トキヤにとって音也の返事は回答でも何でもありません。音也にとってその返事は『好きになってごめん』という確かな返事でした。しかしトキヤには『誰を好きか言えなくてごめん』と聞こえたに違いありません。音也はそういう回答だと分かっていて選びました。それは嘘が下手な音也の精一杯の言葉でした。相手との認識を擦り合わせないまま返事をする、音也が少し嫌いな、音也自身の得意技でした。

 トキヤはそんな音也を見て、音也がそれ以上口を開かないのを見届けてから部屋の奥に視線を遣ったようでした。僅かにトキヤの目が細められた事を考えると、奥の部屋の床に散らばる異様な赤色たちにも気が付いたはずです。
「音也、来てください」
 ぐい、と再び音也は引っ張られ、今度は部屋の外に連れ出されました。音也は何故トキヤが突然そんなことをするのか分からず、しかもそのトキヤの手の力が思いのほか強い事にも驚きました。
 幸いにも早朝のせいか寮の廊下に人の姿はありませんでしたが、何時人が来てもおかしくありません。こんな二人を見れば誰であっても驚いて声をかける事でしょう。それが分からないトキヤではないはずです。それに音也の部屋のドアの鍵だって締めていません。誰かがあの部屋をうっかり見てしまったらどうするつもりなのでしょう。それに気が付かないトキヤでもないはずです。
 なんだってどうしてトキヤはこんな事をするのでしょうか。何も言わない音也に怒ってしまったのでしょうか。それともこんな治す方法も分からない病気にかかっている人間を事務所の寮には置いておけないと思ったのでしょうか。という事は音也は病院に押し込まれるのでしょうか。そうしたらもう出て来れないのでしょうか。治る見込みのない人間が病院に入れられてしまえばどうなるのでしょうか。
 病院の白い壁、クリーム色のカーテン。消毒の匂い。その中に囲われている自分を想像した音也は途端に怖くなってしまって、子供のように首を振って、足をつっぱらせました。
「どこ行くの、やだ、やだよ、トキヤ…!」
 俺行きたくないよ、と何処に行くのか知らないまま、音也は言いました。音也はすっかりこの『もの吐き』の重症患者になってしまっていて、自分ではどうにも出来ないのです。出来れば何処にも行きたくないのです。音也を守る安全な暖かい毛布の中でうずくまって、苦しいものを見たくなかっただけだったのに、どうしてこうなってしまったのでしょう。

 しかし想像に反して、何故か音也がひっぱりこまれたのは同じ階のトキヤの部屋でした。
 嫌がって足を突っ張った音也の手を引くことは容易ではなかったでしょうに、涼しい顔をしたままのトキヤは音也を部屋に入れると、少し強引にリビングのソファに座らせました。病院に連れられてしまうわけではないことにすっかり拍子抜けしてしまっている音也がソファを立とうとする気が無いと判断したらしいトキヤは、次に無言で部屋の奥――その先はトキヤの寝室です――に姿を消しました。
 トキヤが寝室にすっかり消えてしまったのを見送った音也は、目を泣きはらしたまま、きょろきょろと周囲を見回しました。トキヤの部屋に来るのも随分と久しぶりの事です。音也は記憶の中と少しも変わらないトキヤの部屋を見回しながら、泣き過ぎたせいなのか、それとも昨日の夜から何度も吐いてしまっているせいなのか、しゃっくりを数回零しします。すると、ほどなくして奥の部屋からトキヤが戻ってきました。その手に何かを持って。

「音也、これを」
「これ、何…?」
 トキヤが掌を差し出し、音也に渡したものは小さなガラスの小瓶でした。音也の掌の中にすっぽり収まってしまう程度の大きさしかない小瓶はコルクできっちり蓋がしてありました。その小瓶の中には何かが入っています。
 音也が小瓶を転がして中身をよく見てみると、さらりと揺れる中身は砂のように見えました。しかし色は深い青みがかかっていて、それが自然の中にあるものではないという事が分かります。例えるならば、施設に居た頃、音也がよく年下の女の子にせがまれて遊んでいた砂絵キットに入っていた、着色された砂に良く似ていました。ただしこっちの砂は着色されたと言わんばかりの色をしているのではなく、優しげな色あいのキラキラと太陽の光を弾くような美しい青い砂でした。
 まさかトキヤがいくら作り物めいていないとは言え、ただの砂を集めているとは到底思えません。これは一体どういう事で、これは一体音也に何を言いたいのでしょう。音也は答えを求めてトキヤを見つめると、トキヤは音也の隣に座り、そして音也の手の中の小瓶に視線を落として、一言こう言いました。
「星の砂です」
「星の砂…?」
「ええ、砂の形を見てください」
 トキヤの言葉の通り、その小瓶の中をよくよく注意して見てみると、確かにその砂はただの砂ではありませんでした。
「あ、砂の形が星みたいになってる…」
 星の砂、その名前の通り、音也の見つめる青い砂の一粒一粒がまるで星の形を作るように、小さな突起が出ていました。
 トキヤは音也の言葉に、ええ、と小さく頷きます。
「星の砂、とは言いますが、実際はそれは砂ではないんです。砂のように見えて、実際はとある原生生物の殻なのですが…いえ、それはいいんです。その砂は青ですが、本来は青ではありません。日本では沖縄で見られる砂ですが、そこにある星の砂は普通の砂浜と同じ色をしています」
「沖縄に…。じゃあトキヤ、沖縄に行ったの…?」
「沖縄と言っても本島から離れた離島にある砂です。仕事で沖縄に行ったとしても、離島に行く暇も、採集する時間もありません」
「じゃあ、」
 音也は益々分からなくなってしまいました。星の砂は沖縄にありますが、トキヤが持っているのは青い星の砂です。そもそも星の砂は青い色をしていない。トキヤは星の砂を採ってきたわけではありませんが、トキヤが持ってきたのは星の砂。じゃあ一体これは何で、一体どういう事なのでしょう。
 音也がトキヤに答えを求めようとした瞬間、こんこん、とトキヤが小さく咳をしました。
「トキヤ…?」
 その軽い咳の調子は音也が知っているものと殆ど同じでした。いいえ、そっくりそのまま同じだと言ってもいいでしょう。
 乾いた音、喉の上の方から出ているような軽さ、トキヤが唇を覆うように手を被せる手つき。それはまさしく。
 こんこん。トキヤがまた繰り返して二回咳をしました。そしてトキヤは口に当てていたその手を音也の方にゆっくりと差し出しました。

「私も――もの吐きの罹患者なんです」
 その手の中にはさっき音也が見た小瓶の中の砂がありました。
 星の砂は小瓶の中のものよりもキラキラと部屋の中の光を集め、わずかに深い色をした青が夜明け前の空の色のように美しく煌めいています。

「うそ…」
「嘘ではありません」
 呆然と呟く音也にトキヤはとても冷静な様子で言いました。音也の肩を掴んでいた時の乱した表情とは打って変わって、何か大きな決意をしたかのような清々しささえそこにはありました。一体それがなぜなのか音也には見当もつきません。トキヤも同じもの吐きの人を見つけて安心したのかな、と音也はぼんやり思いましたが、トキヤが人と同じであることで簡単に安心するような人間では無いことを知っていたので、すぐさまその考えを打ち消しました。
「……じゃあトキヤは何を我慢してるの?」
 音也は思わず聞きました。感染のきっかけがどうであれ、もの吐きを発症するのは我慢をしている人。
 トキヤは誰よりも努力をする分、誰よりも我慢をする人です。多くを我慢し、多くを飲み込み、多くを理論でおさめてきた人だからこそ、割り切れない気持ちが沈殿していてもおかしくはないでしょう。我慢しているのは仕事のことでしょうか。もっと何か他のことでしょうか。もしかしたら音也に対して何かを我慢している可能性だって否定できません。音也はトキヤと親友ですし、音也はトキヤの事が大好きですが、おおらかだと公言している音也はしっかり者のトキヤに叱られる事が昔から多いのです。
 一体トキヤは何を言えずに苦しんでいたのでしょうか。風にさらわれてしまいそうなほどに静かで美しいこの砂に想いを乗せてしまうほど。
 しかしトキヤが次に口に出した言葉は、音也のどんな予想とも、想像とも、全く違うものでした。

「好きです」

 ――は、
 思わず音也が零したのは、ほとんど吐息のような掠れた声でした。
「何を、」
「あなたのことです」
 夜明けの色を詰め込んだ瞳にじっと見つめられ、音也は酷く狼狽えました。
 すき。すき、とは、まさか好き、の事でしょうか。好き。それは。あの好きということでしょうか。音也の思う『好き』と同じ、あの好き、なのでしょうか。

 好きです。あなたのことが。
 トキヤの発した二つの言葉をくっつけると、音也の中でこんな一文が出来上がりました。
 まさか、まさかそんな事が、と音也は思います。もしかすると『そういう意味』になるのではないでしょうか。いえ、しかしこんなタイミングを見計らったように、これほど都合のいい事など起こるのでしょうか。これは追いつめられた音也が、何かとても都合よくトキヤの言葉の意味を作ってしまっただけなのではないでしょうか。
「うそ…」
 音也は思わず呆然と言った調子で呟きました。
「どうしてそう思うんです?」
「どうして、って…。だってトキヤ。我慢してる事、って、それはだって…」
 それはだって、まるで音也と同じではありませんか。何もかもが同じではありませんか。音也が我慢して我慢して、とうとう華や宝石にしてしまったあの『もの』達の本当の姿と。
「だってトキヤがそんな、」
 そんな――、どうだというのでしょう。音也は自問自答します。トキヤが恋でもの吐きを発症してしまう事が意外だといえばそうなのでしょう。が、しかしトキヤは鉄仮面でないことは音也が一番知ってます。トキヤが理性と理論の人であっても、その行動の元にあるのは熱い感情のうねりだという事をどうして音也が知らないと言うのでしょう。あんなにも感情を焚き染めた歌を卒業オーディションで歌ったトキヤに対して、恋と言う感情でもの吐きになるとは思えない、と言えるはずがそもそも無かったのです。
 言葉が詰まって上手く音に出来ない音也に、トキヤはほんの少しだけ微笑んで、こんな風に言いました。
「貴方は少し私を買いかぶりすぎです。貴方はよく私を優しいと、真面目だと冷静だと評価してくれますが、私はさほどのものではありません」
「そんなわけ…」
 と言いかけてコンコン、と音也は軽い咳を零しました。その先に続くはずだった言葉は美しい華へと姿を変え、コトリとガーネットが二人の間に落ちました。間の悪いタイミングできらめく宝石を音也はバツの悪い気持ちで隠そうとしましたが、それより先にトキヤは手を伸ばすと何の躊躇もなく手に取りました。ダメだよ、と言いかけた音也の言葉は、トキヤの少しさみしそうな表情で打ち消されました。
「……この華を見て、あの部屋を埋め尽くしている貴方の感情を見て、それが向けられる相手に嫉妬して、こんな行動を…今まで必死に隠してきたもの吐きを貴方に告白する程度には私は動揺したんです。そんな人間を冷静とは呼べないでしょう?」
 そうなのでしょうか。音也にはよく分かりません。確かにさっきから音也が目を白黒させてしまうほどトキヤらしくない事ばかり連続していますが、それが音也の思うトキヤの良い所に何の影響も及ぼさない気がしました。だって、トキヤはトキヤです。音也の好きな、優しくて、真面目で、何にでも真摯で、ここぞという時に音也の苦しみを掬い上げてくれる、そんなただ一つの事実は微塵も揺らぎません。揺らぎっこないのです。そんな言葉を上手く説明できない自分を音也はとても歯がゆく思います。
「私は感情に任せて、貴方から、一十木音也から友人の一ノ瀬トキヤを奪ってしまったんです」
「…あ」

 そこで音也はようやく、ようやく、音也とトキヤの間に横たわっている大きな勘違いに気が付きました。
 トキヤがいまだ音也の『ごめん』の言葉の本当の意味に気が付かないままでいることに。

 カッと音也のお腹の底の方が燃えるように熱くなりました。それは背中にまで広がって、首筋に、そして頬に、耳へ。じわじわとした熱は音也の気持ちを材料に炙られたかのように、そのまま身体に乗り移って広がります。
 そんな風に全身をほのかに赤くしてうつむいた音也を、体調を悪くしたのかとトキヤが心配そうに覗き込みます。
「音也?どうしたんです?まさか体調が、」
「トキヤは俺の吐いた華を綺麗、って言ってくれたけど、あんな…あんな真っ赤な部屋…」
 恐ろしくはなかったのだろうか。気持ち悪くはなかったのだろうか。
 音也はトキヤの言葉を遮って、思わず聞きました。どうしても、トキヤだからこそ、あの光景を他でもないトキヤが見てしまったからこそ、聞かずにはいられませんでした。
 床一面の赤い色が音也の頭の中に浮かびます。まだらな濃淡を描く赤いじゅうたんのような光景を。音也の中に沈殿していた気持ちの形をそのまま色にしたのであれば、なんだかそれはとても恐ろしいものではないだろうか、それは気味が悪くはないだろうか、と音也が思っていた光景を。

「…赤は、」
 トキヤは音也の言葉をどんな風に受け取ったのでしょう。トキヤは少し黙っていたかと思うと、意を決したかのように一言そんな風に切り出しました。
 しかし次の瞬間には少し気まずそうにきゅっと口を閉じ、そして再び少しだけ考える様な素振りを見せた後、ようやく口を開きます。
「赤は、貴方の色です」
 トキヤの言い切った言葉に言葉に音也は首をこてんと傾けました。グループのイメージカラーのことでしょうか。でしたらもちろん赤とは音也の色です。それが一体どうしたというのでしょうか。
「いえ、グループの中でもそうですが…、ST☆RISHが結成される前から思っていたんです。その燃える様な鮮やかな髪の色と、どんな場所でも輝くその瞳の色を見て、赤を見ると音也を思い出すようになって、赤とは音也の色だと」
 そういうものなのでしょうか。言われてみても音也にはいまいちピンときませんでした。
 確かに音也自身も持ち物に赤を取り入れる事はありましたが、トキヤが赤い色を見て音也を思い描くとまでは思っていなかったので、その意外さにとても驚きました。この世界に赤色はどこにだってあります。それを見て、トキヤは心のどこかで音也を思ってくれるのでしょうか。
 ですが、そうは思いながらも、そんな風に感じるトキヤの気持ちと同じものに、音也も心当たりがありました。
 朝まで撮影が押したドラマの現場から帰る途中で見る夜明けの色。真っ暗な空が静かに色を落として、みるみる深く美しい紫の色に変化していく中で朝日に追いやられる星がきらきらと光の粒を散らしたように輝いている光景。それを見ると、音也はいつもトキヤを思い出します。
 なんとなく眠れず夜中中起きていた日の、全てが沈黙する夜が終わって空が紫色になってくる切り取られた夜明けの光景。ようやく夜の中の途方もない心細さから解放されて、その空の色と安堵の心に思い出すのはいつだってトキヤの事でした。
 トキヤの言いたい事は、音也のそんな風に感じた経験とよく似たものではないのでしょうか。
 大きな予感に震える音也の前で、トキヤは最後にこんな風に続けました。
「だからあの華と宝石は…。あの真っ赤な堂々としたダリアは音也の髪を思い起こさせますし、アネモネは夜の中で見る貴方の髪色でもあります。あの宝石の、ルビーの凛とした赤は仕事をしている時の音也の目、トルマリンの色は…陽に透かした時の瞳に似ていると…。そんな沢山の赤い色たちに包まれた音也が今まで言えなかった恋心は、私は、」

 ――なんと美しいのだろうか、と思いました。

 そんなトキヤの一言に音也の心の中にべったりと張り付いていた不安だとか畏れだとか、そういうものがすうっと消えていくのが分かりました。この音也の恋心に許しを与えられるのはトキヤだけです。この音也の恋心を生かすも殺すもトキヤだけです。この音也の気持ちを認めて欲しいのは――トキヤしかいないのです。音也にとって、もうそのトキヤの言葉だけで十分でした。いいえ、十分すぎるほどで、たくさんのお釣りがくるほどです。
 音也の気持ちは、ようやくそこでやっと在ってもいいものだと肯定されたのです。これほどの許しがあるでしょうか。これほどの幸福が他にあるでしょうか。

「トキヤ、俺…、俺っ…!」
 そうして音也は唇を開きました。
 言えなくて、言えなくて、我慢していた事を。トキヤが、他の誰でも無いトキヤが、美しいと言ってくれた華や宝石に姿を変えてしまっていた感情を今度こそ勇気を出して言葉に変えて。

 好きだよ。
 ずっと言えずに身の内の深く深くに抱え込んでいた、その一言を。





 少しだけ、その後の話をしましょう。
 どうなったのか、という結果だけを言うのであれば、音也とトキヤが悩まされていた『もの吐き』はさっぱりすっかり治ってしまいました。あの教授の言っていた『言えなかった事を言えば治る』という言葉そのままに。
 あの時、音也が言えなくて言えなかった一言を口にすると、トキヤもう心の底から驚いたと言った風の表情を浮かべ、そして次の瞬間にはみるみるその表情が柔らかくほどけていきました。あの時のトキヤの表情の移り変わりを音也は死ぬまで忘れないでしょう。
 映画やドラマや小説では想い合う二人が気持ちを伝えあうシーンで綺麗なハッピーエンドを迎えますが、現実はそのシーンで終わりではありません。きちんと現実が連続して続いていくのは当たり前の事で、その後、ようやく両想いになった幸せを噛み締めるトキヤと音也であっても、5分も経てば場を満たす空気に何とも言えない照れくささを感じました。音也は思わず照れ笑いをして、トキヤは咳払いをしたほどです。その時にはあれだけ音也を悩ませていた吐き気はすっかりなくなっていて、空腹さえ感じたほどです。そしてようやく音也に余裕が戻り、昨日の夜から何も食べていない事を思い出す事が出来ました。
 音也はトキヤに何か食事を作ってくれないかとねだり、トキヤもそんな音也に仕方ないですね、と口では言いながら柔らかく笑っていた時の事です。

 二人は同時にコンコン、と咳をしました。
 トキヤがさらりと床の上に青い星の砂を零し、その上に音也の零した赤い華がひとつ落ちました。
 砂は今までトキヤが零していたものよりもずっと深い藍色に煌めき、それはまるでトキヤの髪の色のようでした。そして音也の吐き出した華は今までのどれとも違っていて、名前も知らない不思議な華でした。10枚の大振りの花びらが誇らしげに開き、色はまるで音也の瞳のように透き通った紅色です。

 もの吐きは治っていなかったのでしょうか。二人は顔を見合わせて、そして次に揃ってその砂と華を見つめました。それは二人の心配に反して、一枚の写真で切り取ってしまいたいほどに美しい光景でした。
 すると次の瞬間、いったいどうしたというのでしょう。とても不思議な事に、その華と砂はまるで陽に透かされたかのように次第に透明になっていったかと思うと、最後には静かにその姿をその場に透かして消えてしまったのです。
 一体なにがどうなっているのか。こんなことが現実に起こり得るというのでしょうか。音也にはもちろん分かりませんし、トキヤにだってその現象に名前を付ける事はできません。それはただ不思議としか言いようのない光景でした。

 それから二人はただの一度も『もの』を吐いていません。

 今なお、もの吐きの直接の治療法は見つかっていません。CDC(この件で嫌でも音也は覚えてしましまいました。しかし未だにクイズ番組にゲストに呼ばれてもこの答えが出題される事はありませんから、きっとこれからも出題されないんじゃないかと音也は疑っています)がこれからその特効薬を見つけるのかどうか音也にはさっぱり予想もつきませんでしたが、きっといつかは見つかるのでしょう。人間はずっと昔からそういう風に、原因を解明し、薬を作り、病原菌を殺して生きてきたのですから。

 ちなみに診察をすっぽかしかけた音也は教授に慌てて連絡を取ることも忘れませんでした。とりあえず治った事を報告すると、教授は『何はともあれ良かった』と言ってくれました。まさか告白して治ったとも言えず、とりあえず言いたい事を伝えることが出来たのだと素直に言うと、やはり『それは良かった』と優しげに言いました。もしかしたら音也が言えなかった言葉がどういう類のものか、教授は気が付いていたのかもしれません。
 きっと教授から見れば音也は頑なな患者であったに違いないでしょう。しかし教授は素直に音也の全快を歓び、加えて『言いたい事を言えた自分を褒めてあげてください』と言ってくれたので、彼は本当に患者の事を思っている名医なのだと音也は思いました。
 シャイニング早乙女も音也が治った事を伝えると『そうか、良かった』と真面目な声で一言そう言ったのでした。きっと社長として所属アイドルの心配をたくさんしてくれたのでしょう。そんな風に考えた音也は『ありがとうございます!これからも仕事頑張ります!』と元気いっぱいに答えたのでした。





「そういえばトキヤ、ずっと気になってたんだけど」
 そう音也が切り出したのは、あの騒動からさらに10日ほど経ったトキヤの部屋での事でした。
 この日は二人とも夜のごく早い時間に仕事が終わり、トキヤの部屋で一緒に夕飯を食べた後、ゆっくりとした時間を過ごしていました。
 これほどまとまった時間が二人一緒にとれたのはあの日以来の事です。実は柄にもなく音也は少しだけ浮ついた気分でいたのですが、夕飯を食べ終わって少しゆっくりして何か飲み物でも、という流れになった時に、笑い話にするにはまだまだ時間のかかりそうなあの出来事について、ふと浮かんだ疑問を口に出しました。
「なんです?」
 音也はリビングのソファにクッションを抱えて座っていて、トキヤはキッチンから二人分のマグカップを持ってリビングに入ってくる所でした。テレビからはちょうど音也がもの吐きに苦しんでいた時に収録が行われた、あのST☆RISHの冠番組が流れています。OAをしっかりチェックするのは音也もトキヤも習慣になっていますが、詳しく見るのは後で録画したものでもいいでしょう。
「あの病気、トキヤは誰から感染したの?」
 マグカップを受け取りながら、音也はこう聞きました。マグカップからは暖かな湯気が立ち上っていて、くんと匂いを嗅ぐとそこからは甘い香りがしました。時間は午後10時を越していると言うのに、トキヤが音也にココアを淹れてくれるというのは、カロリー管理に誰よりも厳しいトキヤなりの、今日も一日お疲れ様、という労わりの気持ちなのでしょう。トキヤの手の中のマグカップにはコーヒーが入っていて、黒々としたその中には砂糖一つまみも入っていないに違いありません。
「スタッフの方からです。打ち合わせの途中で随分苦しそうにしていたので声を掛けたら目の前でペンライトを。まだ国内でもの吐きが大きく騒がれるほんの少し前の事だったので、ついうっかりペンライトを触ってしまったんです」
「そっか…」
 それはもうしょうがないことだったのだな、と音也は思いました。きっと音也でもトキヤと同じことをしたでしょう。
「隠し通そうと決めたものの、流石に社長に言わずにはいられないと思いましたから、貴方と同じくシャイニング早乙女には発症を伝えましたが」
「仕事してもいいって言われたの?」
 音也は聞きました。音也はシャイニング早乙女にはったりにも似た見栄を張ったのですが、トキヤは一体あのシャイニング早乙女を前にどんな風に仕事を続けると言ったのでしょうか。
「コントロールを理由に仕事は出来ると大見栄を切りました」
「見栄だったの?」
 それは音也にはとても意外な気持ちがしました。トキヤが何の確証も無しに何かを確約する姿は、いつもの彼らしく無い様に思います。
 トキヤは素直に尋ねた音也に少しだけその時を振り返ったかのように口元を緩めて続けます。
「最初は勿論、自信がありましたよ。ただ貴方の様子がおかしくなって、私も平静ではいられなくなってしまいましたが」
「え、そんな風には見えなかったけど」
 全くの初耳でした。あの一連の中でトキヤが平静で無かったとかろうじて言えるのは、音也の部屋のドアを叩いたことくらいではないでしょうか。
「音也が鈍感だっただけでしょう」
「ええっ!?」
 まぁ気が付いていないならいいです、とトキヤは言いました。音也には何の事なのかさっぱり分かりませんでしたが、いつの間にかテレビの中の歌のコーナーでは、音也の卒業オーディションの曲の演奏が終わっていました。そうして次に始まったトキヤの曲はスタジオで音也が感じた熱をそのまま画面越しでも伝えてきます。
 歌うトキヤの姿はやはり何もかもが完璧です。
 しかし、やっぱり音也はあれ?と思いました。それは収録の際、スタジオの中で感じた気持ちとそっくりそのまま同じものでした。
 テレビのトキヤが画面から少し視線を逸らせているのです。いいえ、今この瞬間のトキヤの歌う姿を眺めているファンは何も違和感を持つことはないでしょう。しかし音也は違いました。やっぱり何時ものトキヤらしくないと思うのです。切ない歌詞で少し目線を外すのならばトキヤがよくやる手法でしたが、この曲のこれほど熱烈な歌詞でわざと目線を逸らせるのはなんだかトキヤらしくないと思うのです。それにこの場面では、あの時、トキヤの目線は。
 音也は自意識過剰ですよ、と言われるのを覚悟して口を開きました。
「トキヤ。あのさ、この曲歌ってる時にさ、これこれ、今のシーン。俺の勘違いかもしれないんだけど、勘違いだったら言ってね。その、俺の方を、もしかしたら見てたんじゃないかな、って思うんだけど…」
「見てましたよ」
「え!?本当に!?」
 思わず身を乗り出した音也に、トキヤは貴方が聞いたんでしょう、と涼やかに言って、そしてもう一度、この曲を歌っている時に貴方を見てました、と重ねて言いました。
 あの時、感じていた視線は気のせいではなかったのです。では何故トキヤは音也を見つめていたのでしょう。少し考えて音也はトキヤに聞きました。
「あ、もしかして、俺が吐きそうになってるの気が付いた?」
 その瞬間トキヤが大きな、それはもう大きなため息を吐きました。
「あんなにあからさまだったというのに貴方ときたら…。だから鈍感なんです」
「?なんのこと?」
「何でもありません」
「あのさ、卒業オーディションの時もそうだったんだけど、何度聞いても驚くんだよね。トキヤがあんな情熱的な歌詞を書くなんてさ」
 音也の言葉はそれはもう、純粋な感想だったのですが、トキヤから返ってきた言葉はそれはそれは音也が全く考えてもみなかったことでした。

「あれは貴方を想って書いた歌詞ですから」

 トキヤは明日の夕飯の献立を知らせる様な何気ない口調でそんなことを言うものですから、音也はその言葉の意味を理解するのに数秒かかってしまいました。
「…え?」
「だから、あれは私が隠していた貴方への気持ちの中で書かずにはいられなかった歌詞です」
 もしかしたら私はあの歌に言いたい事を乗せられた分、音也ほど症状が重くならずに済んだのかもしれませんね。とトキヤは続けますが、音也はもうそれどころではありません。対してトキヤは首まで真っ赤にした音也を見て、少し笑いながらコーヒーに口をつけたのです。

 ――あの曲のように思われる相手の人は幸せだ。
 スタジオで音也が空中に放り投げた言葉が時間を置いて今ようやく、音也の元に戻ってきたかのようです。なんということでしょう。音也は知らなかっただけで、音也の憧れていたあれらのトキヤの想い、それら全ては音也へと捧げられていたのでした。
 そう、卒業オーディションでトキヤが歌詞を書いていた、あの学園生活の時から。音也の焦がれていた想いと同じだけの想いはずっとそこにあって、きっかけは音也の望んだタイミングでも、音也の願ったものとも違いましたが――それはきっとトキヤも同じでしょう――あの病のおかげで表に出る事が出来たのです。

 音也はあの出来事があってからたまにこんな風に考えるようになりました。
 テレビ局の中を歩いている時、雑踏の中にいる時、群衆の中に居る自分を意識した時。慌ただしそうに廊下を走るスタッフ、街でベンチに座りながら退屈そうにスマートフォンを操作している人、駅で電車を待つ無表情な人たちを見ながら、音也はたまに考えます。きっとこの中の何人もが、言えない想いを抱えて何か代わりのものを吐いている患者がいるのだろうと。そして発症していないまでも、今にも発症してしまいそうな人が何人もいるのだろうという事を。きっと皆がそれぞれが見えない想いを幾つも抱えて生きているのでしょう。それを何だか不思議に思うのです。
 もしかしたらあのもの吐き、という奇病はそんな人たちに何かを促すために自然と発生したものなのかもしれません。人が生きていくための。もしくは次のステージに進むための。
 音也は今、そんなきっかけを作ったあの『もの吐き』の病気の意味をそんな風に思うようになりました。そしてあの病気になれて、きっと良かったのだろうとも。

 そして音也は、あの途方もない恐れを越えて、あのとんでもない怖さを越えて、たった一言を伝えられた幸せを心の底から思うのでした。



【Fin】