(嘘と真実が曖昧な夜明けの話)




 ――夜の中、落ちた嘘、それってねぇ君のため?

 ふと目が覚めて、音也の頭の中に浮かんだのは今度リリースされるアルバムの中でトキヤと歌ったデュエットソングだった。
「のど乾いた…」
 むくりと体を起こして、音也が壁にかかっている時計を確認するとまだ朝の5時だった。
 そして部屋を見回した音也はここがトキヤのマンションで、そして昨日はトキヤと一緒に飲んだのだと思い出した。飲んだと言ってもトキヤは殆ど飲んでいなかったように思うけれど、それも何時もの事だ。

 勝手知ったる、という様子で音也はキッチンに向かい蛇口をひねって水を飲む。トキヤからは散々水を飲むなら冷蔵庫のミネラルウォーターにしなさいと言われているが、蛇口を捻って水道水を飲むと言うのも音也はやめられない。
 それは幼い頃からの習慣だし、施設では水を買って飲んだ事は無かった。だから早乙女学園に入るまで水を買うという意識はなかったから、最初はトキヤを見て驚いたものだ。水をコンビニで買う人間がいた、と思わず口に出して、冷たい視線を送られた事は10年前なのに忘れられない。水道水は別に汚くないんだよ、と音也はトキヤに言ったのだが、美味しさだとか塩素が云々と言われて音也は長らくトキヤへの説得を放棄したままだ。
 コップいっぱいになみなみと水を入れて一気に飲み干す。朝一番の水は少し塩素の味がした。2杯目を飲み干し、そこでやっと一息ついた音也は息を深く吐いた。

 少しべたつく体が気持ち悪い。出来れば二度寝してしまいたかったが、音也はシャワーを浴びてしまう事に決めた。
 音也はクローゼットの中に入れてある自分の着替えを取り出す。幾度となく世話になっているトキヤの部屋には音也が何時泊まってもいいように幾つかの着替えや歯ブラシまで常備してある。
 貴方が予告も無く泊まりに来るから常備する羽目になったんです、と言うトキヤのそれは優しさで、音也はそういうトキヤの事を本当に優しいと思う。

 音也が浴室に向かいかけると寝室のドアが開いているのが見えて、音也はこっそり部屋の中を覗き込んだ。何時もはそんな事をしないのに、何だか今日はそういう気分だった。
「トキヤ…」
 そして人型に盛り上がった場所に全力で気配を殺して近寄り、ベッドの中で寝息を零すトキヤの顔を音也はじっと見つめる。
 まるで作り物のように完璧な配置を保たれた顔のパーツ。眠っているとその整い方が際立っている。長い睫毛に、きめ細やかな肌。通った鼻に夜明け前よりも深い髪の色。アイドルになるために生まれて来た顔だと音也は思う。整いすぎた顔は何年見続けていても飽きるなんて事はあり得ない。
 音也はその顔を見つめながら、そっと少し前の記憶を引き出した。

 泣きながらその子は言った。ごめんなさい、私トキヤ君と。だから音也君とはもういられないの。
 そんな風に泣きながら謝られた夜の事を音也はよく覚えている。1年ほど前だっただろうか。泣いていた彼女は3人前の恋人だった。
 許されるなんて思っていないの、ただすごく私を大切にしてくれた音也君に謝らないと私は何時までも苦しくて、ごめんなさい、最後まで我儘でごめんなさい。気の迷いで、音也君を裏切ってしまったの。

 それ以来、恋人から理由もなく別れを告げられると、ああまたか、と予感を確信に変えて音也は思うようになった。その数日前にはトキヤの体から違う石鹸の匂いがしたり、トキヤの大きな仕事が無かったり、そういう時間があった後だと分かると尚更納得した。
 昨日の夜だってそうだ。恋人にメールで別れを告げられ、ああまたか、と思った。
 あの子はきっとトキヤと寝たんだろうな、と。

 その事を音也はトキヤに告げた事はない。これからも告げるつもりもない。
 普通ならばトキヤを怒るべきなのかもしれない。けれどそれと同じくらい、誘いに乗ったのは彼女なのだから、それはもう仕方ないのかもしれないと思う自分もいる。むしろそっちの方が悲しかった。唯一ではなかったという悲しみ。誰かの一人の太陽になれなかったのだという苦しみが先に立つ。

 そして一人のままだったらという恐怖。
 だから耐えきれない夜はいつもトキヤに聞く。一緒に居て欲しいと。

 音也がそう言うと必ずトキヤは今にも泣きそうな、酷く苦しそうな顔でそれでも小さく安心したように音也を見つめる。失恋した音也よりもずっと悲しそうに見えて、あの顔を一度見てしまうと絶対に忘れられない。
 それを明るい陽の下で言ってはいけない気がして、何時も次の日は酒で記憶が流された風を装う。悪酔いしないのだから忘れるわけがないのに、トキヤはそんな音也の姿を信じているようだった。
 トキヤは本当に優しい。学生時代から音也に冷たくした事なんて無かった。どんな時も文句を言いながらもフォローしてくれるし、さりげないアドバイスが音也を何度救ったか知れない。だから音也はトキヤの傍では安心できる。盲目的に信じてもいいのではないかと思ってしまう。遠く昔に失った家族に対するような絶対的な信頼と呼んでもいいのかもしれない。
 だから本当は恋人を失っても最後にトキヤが傍にいてくれるならいいのかもしれないと音也は思っている。
 でもやっぱり絶対がない事がどうしようもなく怖くて、女の子と結婚して子供が出来れば、血の繋がりと言う絶対のものが出来れば、こんな畏れも無くなるのではないかと、音也は何時も感情と打算の間で揺れている。

「夜の中、落ちた嘘、それってねぇ君のため?」
 自分で書いた歌詞をトキヤが目を覚まさない程度にそっと歌ってみる。しっくり唇に馴染んで、トキヤの歌詞を見た瞬間にこう書くしかないと思い浮かんだ自分の直感は正しかったのだと音也は思った。
 嘘が落ちるのは夜だけだ。陽が昇ってしまえば、失恋から復活した自分に戻らなければならない。そうして愚痴に付き合ってくれた優しい親友に感謝するのだ。

 カーテンの隙間から差し込む光のしたたかな強さ。その罪のない白さに音也は小さく目を細めた。



END