1.ワンライでトキ音
お題「髪を撫でる」/トキ音というかトキヤ→音也/学園時代

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 ようやく帰宅し、ドアを開けた室内はほんのりとうす暗い。それもそうだ、とトキヤは疲労感を滔々と訴える身体の悲鳴を無視して室内の掛け時計を見た。時刻は23時47分。一息つけばあっという間に日を跨ぐ時間だ。今からシャワーを浴びて何だかんだとしていれば、眠るのはどれだけ早くとも0時30分を過ぎるだろう。
 トキヤは同室者を起こさないように静かにデスクの上に鞄を下ろし、ベッドの方に視線を遣った。
 室内の蛍光灯のスイッチは切られているが、同室人――音也のベッドの周りはぼんやりとした暖色の光がやわらかく沈み込んでいる。ベッドサイドのダウンライトが光源をぎりぎりまで絞られて灯ったままになっているのだ。壁には横になった人影がぼんやりと淡く伸びている。
 トキヤがベッドを覗き込むと、案の定、そこにはスマートフォンを握りしめたままの音也が睡眠時特有の深い呼吸を零しながら目を閉じていた。大方ベッドに入ってからスマートフォンを弄るためにダウンライトを点け、そのまま眠ってしまったのだろう。横向きにして、少しだけ丸められた音也の体躯は彼が眠る時の癖だ。
「全く…眠る前のスマートフォンの明かりは入眠の妨げになると前に言ったはずですが」
 独り言だと殊更意識して敢えて口に出した言葉は囁きに近く、思ったよりも柔らかい色を含んでいた。
 トキヤはそんな自分自身に苦笑して、音也の手からスマートフォンを抜き取り、そのままベッドサイドに置くことなく、近くに放置されたままの充電コードに差し込んでやった。何もこれが今日初めての事では無い手つきは手慣れたもので、もうこんなことを何度も――HAYATOの仕事がこんな時間まであって、音也が眠った後に帰宅した際には――してやっているのだ。
 眠った音也の手からスマートフォンを抜き取ってやった初めての時には、そのままベッドサイドに置いてやったのだが、次の日朝起きた音也が『ヤバイ!スマホの充電忘れた』と騒いでいた時は、トキヤは何でもない風を装いながら少しバツの悪い思いをしたのだ。寝ている時に邪魔にならないように気を効かせたトキヤの行動に責められるべき点など何処にも無かったのだが、そんな出来事があって以来きちんと充電器に差し込んでやっている。次の日、それがトキヤの仕業だと知らない音也は『あれ?俺充電してから寝たっけ…?』と残量100%の表示を見ながら首を捻っているが、トキヤがその正しい回答を音也に知らせてやる気は今のところない。

 トキヤは音也のベッドサイドにゆっくり腰かけて、暖色にほんのり染め上げられた、眠る横顔を眺める。
 起きている時は中々気が付かない睫毛の長さを見て、少しだけ露わになった耳を見つめ、手入れなどしていないはずなのに血色と艶の良い唇を見て、思いのほかきめの細かさが目立つ頬を見る。
 そしてゆっくりと燃える様な夕日ほど強い存在感を持ち、しかしながら寂寞の念を煽る落日よりは明るく映えた色をした髪にそっと触れた。
 眠る音也の深い呼吸は少しも乱れない。トキヤはそれを確認して、その手をゆっくりと滑らせた。今まで何度も繰り返した事だ。10回目の夜までは数えていたが、それ以降はもう数えていない。
 朝、セットに時間がかかるトキヤの髪とは違って、少し髪を撫でつけるだけで平素の髪型が出来上がる音也の髪は触れてみるまではどんなものだろうかと思っていたが、実際こうして触れてみると柔らかく、よく手に馴染むものだった。外でスポーツをすることの多い音也の事だ、その髪も紫外線に晒されているだろうに、少しの痛みも感じられない。
 たまにトキヤのシャンプーを使った音也が『トキヤのシャンプー使うとさらっさらになる!』とはしゃいでいるのを、すげなく『当たり前です』一刀両断した記憶は新しいが、そうでなくとも音也の髪は何時だって柔らかだと思うのは欲目なのだろうか。何時だって音也はどこかしら髪色のように明るく、その手触りのように柔らかい人間性を持っている。

 音也が一瞬呼吸を乱し、ううん、と小さく唸って、トキヤは思わず手を離す。しかしその呼吸がまた深いものに落ち着くと、またトキヤは音也の髪を撫でる仕草を再開させる。
 キリが良い所でやめればいいのだから、もう少しこうしても差し支えはないはずだ、と思う。しかしながら、音也が目を覚ました時にどんな言い訳をするつもりなのか、とも思う。しかしまだ触れていたい、とも思うし、一度眠れば爽快な程に安眠を続ける音也がこんなことで目を覚まさない事も知っている。だからきっと自分は何を考えた所で、最初から音也に触れる事をやめるつもりなどないのだろうとトキヤは思っている。
 これは酷く私的な、友人や同室人というカテゴリーから酷く逸脱した行為だ。しかしながら、自分では無い自分をスポットライトの当たる場所で、大勢の目線と、無機質なレンズで追いかけられる空虚な世界から戻った時に感じる途方もない胡乱な空洞を、この時間で癒している自分をトキヤは知っている。これはHAYATOであるという秘め事から連続した、トキヤの音也に対するもう一つの秘め事だ。

「音也…」
 ささめく声を知っているのはトキヤだけだ。そして今夜もここまで。これ以上は何も出来ない。今のトキヤでは音也に言えない事が多すぎる事も、このままでは音也に踏み込めない事も重々理解している。ちらりと眺めた時計の時刻はもう日付を越えて15分が経過していた。今からシャワーを浴びていれば眠るのは1時前になってしまうかもしれない。
 トキヤが音也を見つめるために少しだけ倒していた腰を引き上げる。しかしその刹那、ダウンライトに穏やかに照らされ、壁に伸びた二人の輪郭がぼやけた二つのシルエットが何の因果か重なっているのが目に入った。――まるで口づけを交わしているかのように。
 トキヤはその光景の中に皮肉と言えるほどはっきりと投影された自分自身の願望に、只静かに苦笑したのだった。