不明瞭な仮定論



空が青い。


「左近殿!」
その明るい声に名前を呼ばれた当の本人は青空に向けていた視線を、声の主の方に向けた。
「ああ、ご苦労さん…ってのはおかしいですかね」
その左近の言葉に声の主、幸村は小さく笑って左近の隣に立った。
「左近殿の軍略、見事でした。左近殿のお力が無ければ遠呂智を倒す事は出来なかったでしょう」
「大げさですよ。」
左近は笑って手を振ってみせた。

再び甦った遠呂智は死んだ。
左近という名軍師の活躍によって。

「いくら軍師と言っても、動いてくれる方々が有能でなくちゃいけませんよ。戦は始まったら最後、何が起こるかわかりませんからね」
左近のため息交じりの言葉に、幸村は小さく笑った。
「お館様に他の英傑が揃ったのです。そこに名軍師…負けるはずがないのです」
「いや、アンタもいるでしょう?真田幸村という猛将が」
その言葉に幸村は驚いたように、視線を左近に向けた。
そしてその瞳の奥が少し翳る。この世界に来て、正確には信玄の下にいる幸村を見てから、初めて見せた瞳だった。

それは長篠の喪失の瞳だ。

左近は少し驚いた。信玄の下で動く幸村は生き生きとしていて、それは左近が信玄の下で軍略の勉強をしていた頃と遜色なかった。
しかし今の瞳は。

その話題を変えるように幸村は空を見た。左近はその横顔を見る。そして左近も視線を空に。
やはり空は青かった。
「左近殿はこの後どうされるんですか?」
「あーあぁ。…今回見事に登場してこなかったあの殿の様子を見に行こうかと」
そこで一緒に空を眺めていた、幸村の動きがふと、止まった。
それを眼の端に止めた左近も同じように幸村を見る。
「どうしました?」
「い、いえ。今も三成殿は魏に?」
「たぶんそうでしょうね。噂でちょっと聞いたもんで」
「そうですか」
そこでぷつりと会話が止んだ。空では鷹が高い鳴き声を出しながら空を旋回している。

「行かないんですか?」

静かに左近は問うた。何処に、とは言わなかった。
会いたくないわけがないと、左近は思っている。そしてあの自分の主が幸村に会いたくて仕方の無い状況に陥っている、だろうと想像はついていた。
二人とも何を恐れているのか。左近には分からなかった。
幸村は少しの間足元を見てから、眼を閉じ、ゆっくりと首を振った。
「何故?」
左近は静かに問うた。
「会って良いのか…分からないのです」
「分からない?」
「私は武田に戻った。私の時間は“もののふ”として在りし日に戻ったも同じなのです」
「……」
左近は黙った。

確かに共に戦い、知った。
幸村が時折見せるあの遠い眼が、無い。
明るい声が武田の陣営に響く。『お館様』と幸村は明るい声で言い、笑う。
今の幸村は、昔左近が軍略を学ぶ為に武田に居た時に見た、幸村そのものだ。
「今の私が三成殿にお会いしていいのか、分からないのです」
「まぁ確かに複雑でしょうな」
「…長篠ではもう居なかったお館様が居る。私が三成殿や兼続殿と共に居た時には死んでいた武将が生
きている。」
この世界はおかしいのです。
そう幸村が続けた。

それは左近も分かっている。おかしいのだ。この世界は。
居てはいけない人間が存在し、あらねばばならない絆と関係が、無い。

「これからこの世界がどう動くか分からない。だから私は武田から―動けないのです」
そう言って幸村は酷く所在無さ気に、瞳を伏せた。

長篠が無ければ、幸村はもののふとしての“何か”を失わない。
だからこそ、小田原の誓いも、その後の義に生きる姿も、この世界では必要ない。
「私は兼続殿とお会いできて嬉しかった。きっと三成殿とお会いしても嬉しいに違いないのです」
左近は元の世界より、2割増しほど義!愛!と叫んでいた兼続を思い出す。
しかし彼も今は上杉謙信の家臣だ。謙信亡き後の上杉ではない。信玄と謙信は好敵手。この二つの軍勢の間に戦が起こってもさして不思議では無い。
「もしや私は兼続殿と戦場で敵同士として対面するやもしれません。お変わりない兼続殿に安心しながら。…義の世を作ろうと約束しながら。」
幸村の声は小さかったが、酷く明瞭としている。
風が靡いて幸村の髪を揺らし、左近の頬を撫でた。
「信長との戦もあるやもしれません。家康と秀吉殿は信長の家臣でいらっしゃる。そうなれば三成殿は、」
「信長の下につくでしょうね」
左近は幸村の言葉をそのまま補足した。
「私は武田の将として槍を振るうでしょう。長篠の経験から、無茶をなさろうとする勝頼様を止める術をも持つでしょう」
幸村は左近を見つめた。緩やかに笑ってはいたがその瞳は少しも笑ってなどいなかった。

「左近殿は三成殿の所へ向かわれるのですね?」
その瞳には静かな離別の色が浮かんでいた。
もしかしたら明日には三成の家臣としての左近は敵になり、戦場で再会するのかもしれない。しかし戦にならないのかもしれない。
明日の事は誰にも分からない。
未来など、誰も知らない。

「道中、お気をつけて」

幸村は静かに笑った。
長篠を経験した元の世界と同じ、見ているものの何かを抉るような笑みだった。


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