盛者必衰、生者必滅、会者定離 ――君よ、忘れる事無かれ、君よ、驕る事無かれ 何もかも変わらぬ恒久の世など、何処にも存在しない。 月夜、だった。 人気のなくなった京の町には静かな月明かりが灯り、遠くから犬の遠吠えが聞こえる、他に音はない、そんな夜。 そんな静まり返った人気のない路地で、帯刀した、いかにも不逞浪士といった輩が町人風の男に詰め寄っていた。 「何ィ…?幕藩の為に働く志士に感謝の意も示せんというのか?」 「ご、ご勘弁ください。これは今から江戸に帰り、家族を養うなけなしの金しか持っておりません」 どうやら不逞浪士が、夜の町を時間を惜しんで家元へ帰ろうとする町人を引き留めて、金目のものを出せと凄んでいるようだった。 時は幕末。 いよいよ時の徳川幕府に陰りが見えはじめ、諸外国の脅威に何はともなく人々が不安を抱き始め、治安が悪化してきた時代。 思想は尊皇、攘夷、佐幕、と枝葉を分かち、長州薩摩が各々の信念に基づき、この国の歩む姿を模索している頃。変化への確かな予感に、静かなさざめきが日の元の行く末を誘うように不穏な空気を運ぶ。 「貴様、武士に逆らうと言うのか」 思い通りにならない町人にしびれをきらせた男は刀を抜いた。 この時代、武士への逆らいは斬るという行為に直結する。だが、その本意は殺して憂さ晴らしをするか――その骸から金目のものを奪う、そんな賊に近い考え方だ。 「ひぃいいい!!お許しください」 「問答無用だ!この狼藉、死んで償え!」 ガタガタと震え、おびえる町人に大きく降りおろされる刃が月光に煌めいて、死を覚悟した町人が思わず目を瞑ったその時。 ――キィン、という金属音が月夜に響いた。 流れるはずの血潮は其処には無かった。 その武士も、町人さえ予期しえなかった第三者が、其処に居た。 そして突然現れたその第三者が武士が降りおろすはずだった刀を受け止めていたのだ。 今の世には些か珍しい、槍、で。 「何だ、貴様…?!」 「名乗るほどの者ではありません。…刀を退いていただけませんか」 少しの動揺とそれを上回る分の苛立ちが真っ直ぐ介入者――槍を持った月明かりに艶やかに照らされる黒髪の青年――にぶつけられる。 対して青年はそんな武士の様子を些かも気にした様子はなく、凪の水面のような静けさを以て、武士に刀を退くよう告げるのみだ。 「おまえも狼藉者か…!」 「いえ、…ただ無益な殺生を見過ごすわけにはいきません。それだけです」 青年の言い分はもっともな物であったが、この時代、武士に逆らうことは問答無用で斬られても文句が言えない、そういう事だ。そしてそれを誰もが知っている時代で、折の幕藩体制の揺らぎで問答無用で斬られる事が多くなってきている閉塞した空気に満ち満ちている時代。 青年のそれは誰が見ようとも完全に自殺行為だ。 「この…!」 怒りに顔を真っ赤に染めた武士がもう一度刀を振りあげた。狙いは真っ直ぐ青年に向けられている。 その先の惨劇を予見して、ひ、と町人がその様を見て小さく悲鳴を漏らす。 しかし青年はその穏やかな雰囲気を微塵も揺らがせることなく、静かに槍を動かす。 片手だけで為された美しい所作。少しも力をこめていないように見える優雅な所作だった。 その所作に両手で構えていた武士の真剣は難なく弾きとばされ、数尺離れた場所に乾いた音を立てて落ちた。 「ぐ…、くそ、貴様」 そこでやっと武士は目の前の青年と自分の力量差に気がつき始めたようだった。しかも圧倒的な力量差だ。 しかし武士という肩書きが与える自尊心がそれを認めることを許さない。ましてや目の前に居るのはとても武士の身なりをしているとは思えない。ともすれば人を斬った事等無さそうな、むしろ剣さえまともに扱えそうにないようにも見える、青年だ。 苛立ちを侮辱を感じ、わなわなと震えた男は帯刀していたのは別の太刀を取り出し、もう一度斬りかからんとした時だった。 「何をしている!?」 不意に響く声。 姿を見せたのは浅葱色の羽織の男たち。 それが、青年―真田幸村―と幕末に命を懸けた誠の文字を掲げる彼との出会いだった。 *** 夜が明け、朝の光が差し込む大広間。 屯所と呼ばれるその場所に幸村は座していた。幸村の他には昨晩幸村に声をかけた鬼の異名を取る副長を始め、幹部が勢揃いしている。 常の人ならば震え上がる面々に囲まれている現状である。 彼らの評判は決して良いものではない。治安維持という大義がありながらも人を殺める刀を振るう姿に人々は畏怖の念を抱いているのは紛れも無い事実だ。 しかし幸村は表情一つ崩していない。 それが圧倒的な威圧感を醸し出すはずのこの状況に、別の異様な雰囲気を落している。しっくりと落ち着くべき場所を失くして彷徨うかのような違和感が塊に為って漂っている。 それでも幸村は穏やかな空気を纏って座すだけで、それだけがまた一種異様で、幸村を囲む人物達は少々、否、不審に思っている節があった。 開け放たれた大広間の障子からは広い庭、そして抜けるような青空が広がっている。ましてや、良い天気だ、と思える幸村の豪胆さをこの場所に居る全員が知る術はない。 「…で、お前は何だ」 「先も申し上げましたとおり、しがない道場で師範をしております」 幸村は表情を変えずに答える。問うたのは場を代表している副長だ。 ――嘘は無い。 幸村は今は幾度目かの名を変え、この京で小さな道場の師範として生業を立てていた。ひっそり目立たないように。小さな道場で。 教えるのは刀だ。時に武家の女子供に護身術を教える事もある。 幸村の体に染み付いている槍の技巧は誰にも教えていない。 元々槍はそれほど需要が無い。この時代はもっぱら刀ばかりで、他の武器は衰退していっている。 かといって幸村に刀が使えないわけではない。名門真田の生まれであり、刀の使い方は最初に覚えている。ただ刀に命を預けなかったのは槍のほうが相性が良かったと言う理由だけだ。 家康を日の本一の兵と謂わしめた幸村は、師範を越えた腕前を有している。 ともすれば長らく泰平の世が続き本物の戦いを知らぬ者たちよりも戦いを知っている幸村の刀の腕は、槍でなくとも日の本で随一を争うことも出来るだろう。 ただ幸村は其れを隠している。 ……時代に弾き出されたものとして、時代に干渉されることも、時代に干渉することも避けるために。 「何故昨夜はあの場所に?」 「所用で外出しておりまして、偶然あのような場所に。ましてや見過ごすことも出来ず、あのような形をとらせて頂きました」 やはり幸村の言葉に嘘は無い。 昨夜は道場に通っている生徒が突然熱を出したと言うので薬を持っていっていたのだ。その帰り、あの場面に遭遇した。今や嘗てのような信念も無く、武士という形骸化した身分に胡坐をかき、理不尽とも言える所業を難なくやってのけようとするその姿を見過ごす事は出来なくなった、そう言うことだ。 そこに現れたのは巡察中の彼らで、ただの青年にしか見えない幸村が帯刀した相手を難なく撃退している事に不審がられてしまったのは、幸村も想定していなかった事だ。 浅葱色の羽織を見た浪人は慌てて逃げていき、その場で町人は場を離れる事を許され、結局幸村だけが事情を聴取する為にこの屯所に連れてこられたというわけだ。 幸村に言えるのはそれだけで、それ以上のことは何も無い。嘘をついていない以上、やましい事など何も無いし動揺する事自体意味が無い。 このような場で幹部に囲まれたからと言って動揺するような精神も幸村は持ち合わせていない。 これ以上の死線も窮地も掻い潜って来た。生ぬるい生き方はしてきていないし、深遠を見つめるような遠い深い生を今も生きている。――否、生かされていると言うのが正しいのか、幸村には分からない。 ただ事実として、うぬぼれでも何でもなく、何かあればこの場を力ずくでも打開できる確証が幸村にあった。そしてその実力も幸村には確かにあった。 暫くじっと幸村を見つめていたその人物がすっと立った。 鬼の副長と言う名前は伊達ではないようで、ピリピリとした威圧感を周囲に、そして幸村へと漂わせている。 そして何も言葉を発しないままそのまま庭へと降りた。 手に持つのは木刀。そして意味ありげな視線を寄越され、幸村はその真意を測りかねて首を傾げた。 「手合わせ、してもらおうか」 「…手合わせ、ですか?」 鬼の副長が幸村に告げた言葉にその場が小さく騒ぐ。“師範代と言っても民間人相手に無茶だろ”、だとか、“殺す気か?”という外野の言葉をあっさり副長は無視をし、試すような視線を幸村に注ぐ。 その視線を受けて、そしてその視線が冗談では無い事を知って、幸村もまた腰を浮かせる。 「槍を渡してやれ」 木刀を構えたままの副長のその一言で控えていた平隊士が幸村に槍を渡す。それは昨日の晩、幸村が此処に連れてこられた際によからぬ事をせぬように没収されたものだ。 「よろしいのですか?刀と槍では攻撃範囲が異なるかと思いますが」 「鬼の異名を取る俺にそんな事を言う奴は初めてだな。師範代とも言えど一般人。お互い得意な方法でいこうじゃないか」 す、と無駄の無い所作で相手が構えるのを見遣って、幸村もまた構える。 音も無い構え。空気がしんと静まり、周囲から音が引いて行く。 こんな雰囲気は久しぶりだと幸村は思う。 昨日の夜の幸村の振る舞いを見て、この副長が己の力量を身を持って図ろうとしているのだということは容易に察せられた。それが一瞬にして分かるほど、この副長は力量があるのだ。 だが、それなりに加減をしなければならないだろう。 加減をしなければ、殺してしまうかもしれない。 寄るべない海を彷徨う幸村には、槍を振るう明確な理由が無い。それはあの日、大坂で無くした。今の世に信念を持って槍は振るえない。振るえる筈も無い。理由を無くした槍はただの殺戮の道具でしかなく、その自覚こそが今の幸村の戒めだ。 ――己の槍と、終わらない生への。 「本来は槍使いか?」 「道場では刀も教えてはいますが、私は槍が本分ですので」 「…そうか、」 「――では、」 その会話が合図だった。 同時に踏み込んだ2人の木刀と槍が交差し、青い空の下で派手な音を立てる。 素早く下ろされた垂直からの一撃を幸村は真っ向から受け止めた。その幸村の反応速度も周囲から見れば驚くべきものであったが、弾くと思われた周囲の思惑を裏切る形で幸村は木刀をしなやかに掃う。受け流すような所作に副長の眉が驚くように動いたのは一瞬で、今度は胴元に狙いを定めた一撃に、幸村は今度は攻撃に転じた。突きは的確に肩を狙う。その狭く定めた的を相手は体を僅かに捻って交わし、幸村もその動きを最初から想定していたかのように、次の攻撃を繰り出す。 暫し続いた手合わせは加速を増すように、激しさが加わる。 ――だが決着は唐突についた。 幸村が相手の木刀を手から弾くのと同時に、幸村の槍も不意にバキリと音を立てて折れた。 幸村の持つ槍は嘗て愛用していたものとは別のものだ。生死を共にした槍は今も手元に大切に保管しているが、あれは目立ちすぎる上に、あの槍を必要とする場面は日常にはもう無い。 故に幸村は何処にでも手に入る―だが、ずぶの素人が持つようなものではない程度のもの―そういう槍を普段は愛用していた。 「……」 「……」 場に落ちるのは静寂。 幸村は折れた槍を見て小さく息をついた。久しぶりにこれほどの腕を持った人間とやりあったのだ、折れても仕方ない。真剣だったならば無傷ではいられなかった。そういう意味の感嘆を含めた小さな息だ。 対して驚いたのは幸村の相手をしていた目の前の男を含めた周囲だ。 腕の立つ、―ましてや副長―木刀と槍と言う程度の差は在れど、木刀を弾き、その手から取り落とさせると言う所業までやってのけたのだ。これが驚かずにいられるわけがない。 「驚いたな…アンタ、凄い腕の持ち主のようだ」 俺の目に狂いは無かったが、想像以上だ、という褒め言葉に幸村は少し困ったように笑う。 「いえ…」 「名前は?」 問われて幸村は顔を上げた。 「上田源次郎、と申します」 幸村はもう使い慣れた幾度目かの別の名を名乗り、静かに微笑んだ。 |
生者必滅会者定離 |