・S7-6「指名手配犯サム&ディーン」のシリアルキラー兄弟に萌えて変な方向に突っ切りました。
・シリアルキラー兄弟しかいません。
・しかし変な方向に突っ走ってゲスいです。
・兄弟共にゲスいです。
・もはや誰得状態です(白目)
・特にサムがゲスい感じになっているので、苦手な方はバックしてください。











 人生は茶番。

 そう思わないか、そんな風に言われてサムは手に持っていたライフルの残弾を確認していた作業を止めた。
「………は?」
 ぴちゃん。思わず、と言った風に踏み出したサム足先が床の水たまりを叩く。びちゃん、少々可愛らしい音で、少しばかり不快な粘着質な音だ。そんな音が鼓膜の隅に落ち着く様を思い浮かべながら、サムはそのまま動きを止めた。そしてゆっくりと、殊更ゆっくりと振り返ってそんな世にも珍しい事を言ってのけた男を見た。
「ディーン、大丈夫?三流小説か糞みたいな映画でも見た?」
「お前、様々な方向に失礼だぞ」
「だってディーンが急にすっごい馬鹿みたいな事言うから」
 まさしく馬鹿みたいな事だ。間抜けくさくもある。サムはその見解を覆す気には少しもならずに、むしろディーンがそういう――中途半端に変な引用ぶった事――を言い出した事に悪いものでも食べたのか、それとも雷に打たれたのかと不安になりつつも眉間に皺を寄せていると、ディーンはくつくつと喉の奥で笑った。どうやらサムの物言いが気に入ったらしい。
「馬鹿みたい、か。確かにそうかもな」
 そうして、ごつんと足先で地面に転がっている“それ”をぐりぐりと踏みつけて愉快そうになお一層口元に笑みを浮かべた。まるでそれは手慰みとして足元で一生懸命這いつくばっている蟻を無邪気に踏みつけて殺す子供のように、露ほどの罪悪を持たない表情だ。
「なんで急にそんな事を?本当に映画とか小説の引用してみたとか言わないよね?」
「いや?何となくその通りじゃないか、と思ってさ」
 事も無げにディーンはそう言って薄く笑いながらサムを見る。人生を茶番などと引用するのは馬鹿げていると思っているような表情だ。茶番と言ってみたり、そんな言葉を馬鹿げていると示してみせたり、まったくもって言動に統一性というものが無い。ディーンが何を言いたいのか、サムにはいまいち要領が得ない。
「ふぅん?」
 しかしながらサムは曖昧な返事に終始した。それはディーンがどうやら真剣にその言葉を言っていないように見えるという理由が5割、そしてサムにとって至極どうでもいい内容でありそうな可能性が残りの5割だからだ。そういう時は構わないに限る。ものすごくどうでもいい内容であることが多いのだ、少なくともサムにとっては。
 サムはライフルをソファの上に置き、床に転がっていたスマホを拾い上げた。画面を何度かフリックして、動画のアプリを呼び出す。写真を撮るわけでは無い。録画するためだ。今やこの国の経済をリードしているとも言える会社のロゴが背面に刻まれたスマホからピロリという軽快で明るく、気の抜けた電子音が鳴り、録画を示すランプがちかちかと点灯しながら秒数を刻んでいく。
 進む秒数が今のサムの顔を刻々と録画していく。切り取れるはずのない時間に掴みかかり、今この瞬間をこんな小さな画面が切り取っているのかと思うと、急にカメラに向かっている自分自身を意識させられてサムの唇から笑いが零れた。薄いディスプレイに映されるサム自身もそんなサムの表情を追いかけて、まるでそこに別のサムそっくりの別人格がいるかのように、実に愉快そうに白い歯を覗かせている。そしてサムはそのスマホをディーンの方に向けた。
「ディーン、ほら映ってるよ」
「お、男前に映ってるか?」
「……馬鹿だろ」
 画面の中では無駄に整った顔をした兄が髪の毛を整える仕草をおどけてしてみせる。完全にナメきった仕草を画面越しに見つめてサムは愉快そうに笑い、空気の揺れと共に画面もぐらぐらと揺れた。
 サムはディーンのキメ顔をおさめ、それから自分の顔を映し、そうして周囲の光景にゆっくりとレンズを向けた。
 観葉植物が倒れ、鉢の中に入っていた土が床に零れている。窓ガラスが割れ、床一面に散らばりキラリと輝いている。蛍光灯は割れ、ぱちぱちと今際の際の蛍のように瞬いている。クリーム色の、染み一つ無さそうな美しい壁には薄いペンキを噴きつけたように赤が散らばり、黒い小さな穴が場違いな異質さを連れ立っていた。
 そのフロアの綺麗に磨かれた床には転がる幾つかの体がある。白衣を纏う男がうつ伏せに倒れ、白い服を着た看護師が頭から血を流し、ガウンを着た恰幅のいい男が車椅子に座ったまま頭から血を流してうなだれ、柔らかいアイボリーのカーディガンを来た初老の男性が点滴のパックを抱え込んでソファにもたれかかるように仰向けに倒れこんでいた。彼らだけではない。他にも何人もの人間が血の海に沈んでいる。
 そしてディーンとサムはその光景の中心で、ライフルを携えスマホで笑顔を浮かべている。

 それは奇妙な光景だった。例えるならば異質で異常で奇妙な光景だった。
 クリーム色の壁、綺麗に磨かれた木目調の床、深いソファ。まるでそこは喫茶店にも見紛う落ち着きを払っていたが、薄く香る消毒の匂いからして、間違いなくそこは正しく病院だった。普通の病院のような薄汚さも騒々しさからは程遠いものだったが、その光景の中に殺戮の光景が生々しい色をして沈んでいる。

 サムが一歩歩く、ぴちゃりと音がして、サムの靴を血が濡らす。緊張感を欠いた滑稽な音だとサムは思う。血は汚いものだ。誰かしら何かの呪いにかかっている。人間の血は鎮痛剤や市販薬の化学薬品を取り込み、ストレスに血中成分のバランスは崩れきっている。人間の生身がこんなに汚いものが詰まったものだとは。ああ、そういえば人間を血の詰まった袋と称した人間が居た。あれは一体誰だっただろうか。
 ディーンが愉快そうに笑いながら、持っていたライフルを肩に担いでサムの後ろに回り込む。サムの肩をディーンの手がぽんぽんと二度叩き、それを合図にしてサムはスマホの画面――後に見るであろうFBIとメディア受けを意識しながら――高らかに宣言した。
「無能なFBIはいつまで僕達を野放しにするのかな?」
「俺達はまだまだ茶番を続けるぞ!」
 随分茶番って言葉が気に入ったんだな、とサムは少しだけ呆れた顔でそんな事を耳元で叫んだディーンを見遣ったが、ディーンがいつになくご機嫌だったのでサムはそれ以上突っ込むのはやめておいた。

 彼ら兄弟は正しく殺人犯だった。
 ただその殺人に動機は無い。ただ殺したいから殺す。人の死んでいく姿に快楽を覚え、幾度もその衝動に身を窶した――シリアルキラーだった。


***


 時に人生は茶番じゃないかと僕は思う。

 いや、正確に言い直そう。人生を茶番などというのは負け犬のために用意された論理だと僕は思う。だから“時”に人生なんてものは負け犬にとっては茶番に成り下がると僕は思う。負け犬に限って人生を茶番だなんて嘯いてみせるからタチが悪い。その瞬間からそいつの人生は茶番だ。自分で茶番に格下げする愚かな行為だ。しかし負け犬は負けているから自らを貶めて逃げる行為に気が付かないから幸せなもんだろう。
 茶番なんて言葉は実は人生を達観したように見せかける事の出来る便利で体のいい逃げ言葉だ。僕はまだ若造だけど、その所はしっかり分かっている。そこらのクソのような奴らとは大違いだ。馬鹿な奴らの言葉を耳を澄まして聞いてみるとそれなりに聞こえるが、頭の中に留め置いて内容を精査してみるとどうという事は無い、ままならない現実に対する自分への言い訳だとすぐに分かる。頑張っている人間は分かる、何故なら僕は頑張っているからだ。
 しかし僕の思う厄介な状況の肝はそこではない。その言葉が指し示す方向は、他人へのものではなく、自分への言い訳である所が恐ろしく厄介なのだ。そんな言葉を使う奴を僕は卑怯だと、正直僕は見下している。努力しないやつの言い訳はいつだって見苦しい。
 だから僕は努力していたから茶番なんて言葉は絶対に使わないのだ。それだけで僕は勝っていると思う。この世の怠惰を好むあらゆるものから、そうして僕自身にも。
 こうして頑張っている僕は、すごく偉い。僕は僕自身を納得させられている。それは誇るべきことだ。

 “昨夜病院で発生した発生した銃乱射事件について、被害者は医師1名、医療スタッフ3名、入院していた患者6名、計10名に及ぶことが明らかになり―…この事態を受けてFBIは―…事件の容疑者をー…犯行声明等について公式発表は無く、間もなく予定されている会見での更なる情報開示が待たれます。…なお一部の目撃情報によると犯人は男性二人組、凶器はライフルを使用したという未確認情報もあり…――”
 ラジオに雑音が混じっている。時折、ざざざ、という鼓膜をざらざらと撫であげる音がこの上なく不快だ。せっかくニュースに聞き入っていたというのに、雑音が気になってたまらくなって、さっきまで聞いていたニュースの内容もすっかり頭の中から抜け落ちた。
 イヤホンを無理矢理に耳にねじ込み直しながら、はたと僕は気が付いた。イヤホンを差しなおそうとそうでなかろうと、音声の明瞭さに何の変化ももたらさないという事に。イヤホンが悪いんじゃなく、スマホに昨日入れたばかりのラジオ視聴のアプリが悪いのだ。いや、昨日入れたばかりのアプリのプログラミングが悪いと言うより、スマホがネットに上手く繋がっていないのが悪いんだ。
 僕は机の上に置いていたスマホの画面を見つめて無性に腹が立つのを押さえられなかった。
「何なんだよ…」
 電波の入りが弱い。ここが圏外のはずがない。山奥じゃあるまいし、何もない場所を突っ切っていく州道が伸びているわけでもない。少なくともここは州で5本の指に入る都市で、圏外なんてものは10年前ならまだしも今ではありえないだろう。スマホを契約しているキャリアのアンテナはそこかしこにあるはずだが、きっと建屋の中では電波に弱いのだ。使えない会社だ、企業努力が足りない。僕程度の学生でもカスタマーサービスを向上させるためにすべき対策を思いつける事が出来ると言うのに、世の社会人とやらは社会に出た瞬間に日常生活で気が付くものも全部気が付かなくなっていくものなのだろうか。ならば由々しき問題だ。
「あー。もー…」
 無暗にイライラしながら僕は耳からイヤホンを引き抜いて、スマホをタップしてアプリを終了させた。少しでも雑音が入れば歪に完成度が歪んでしまうようで気に入らないし、そんな音に興味は持てない。ミュージックプレイヤーを起動させようかとも思ったが、興がそがれてやめた。僕にここまで気分をそがれさせるスマホの電波状況をぐっと睨みつける。
 そもそも電波が弱いなら弱いで仕方ない。じゃあ別にここに無料の無線LANスポットがあったっていいじゃないか。普通のカフェならどこにだって入っているのに、ここにはそんなものはない。だから公共の建物って嫌なんだ。

「ここ、いいかな」
 そう言われて、僕の今まで考えていた怒りは不測の声に簡単に掻き消された。
 顔をあげると目の前に随分と大きな男がいた。というか冗談抜きにかなり大きいと思う。見た感じ190を超えているんじゃないだろうか。座っている僕から見上げると余計に威圧感があって何だか落ち着かない。こんな場所で――役所の公文書館で――絡まれたりはしないと思うけれど、人と喋らずに済む場所で話しかけられるのは苦手だ。
「……どうぞ」
 とだけ僕は答えた。それは、是、であれば大抵の問題が波風立てずに解決されることを僕は学んでいるからだった。とりあえず断る必要のない場面では否定を口に出さない事が敵を作らずに渡り歩いけるというのが僕の信条だ。
 しかし何でこの男はわざわざここに?
 僕は周囲を見渡した。どの机にも人がまばらに座っていて、目の前の男は敢えて僕の目の前を選んだということらしい。こう思うのも何だが、単に僕の前の方が座りやすかったのかもしれない。他の机に座っているのは気難しそうな老人、スーツ姿の職業不詳の中年男に、鼻の頭で眼鏡をかろうじてひっかけている老婆。この老婆はきっと家の電気代をケチるために時間をここに潰しに来ているのだろう、身なりが小汚いし、纏う空気が卑しい。僕はそう決めつける。
 僕は目の前の男を見た。20代後半くらいだろうか。さっき話しかけられた印象からして物腰は柔らかそうだ。濃い青色のジャケットに中には薄いストライプの入ったシャツ。下はジーパン。普通だ。至って普通でとりたててどうということはないが、学生には見えない。しかしサラリーマンにも見えない。わけの分からない不思議な男だと思った。
 男の手には幾つかのファイルと蔵書の統計資料がある。持ち込み資料での学習を禁止ているプラカードを視界の隅に入れつつ、僕はまじまじと向かいに座る男を見つめる。
 馬鹿そうじゃないな、と思った。雰囲気からして少なくとも学はありそうだ。雰囲気も悪くない。持っているものからしても、賢そうな奴に見える。
 男は携帯電話を出して画面を確認している。スライド式の携帯電話のボタンを幾つか押した後でちょっと眉を寄せて、携帯電話の方向を少しずらす様にしてみせた。
「…電波入んないですよね、ここ」
 僕は思わず話しかけていた。躊躇したのは一瞬で、僕にしては珍しい事だった。
「え?」
 僕の言葉に男は一瞬だけ面食らったようだった。が、僕の顔を見て、携帯電話に目線を落として僕の言いたいことを分かったのか、困ったように笑いながら携帯を机の上に置いた。携帯の機種を見るとやっぱり僕と同じキャリアだ。この人も脆弱な電波の被害者なのだ。
「あ、うん。そうみたいだね。もしかして君のも?」
「そうです。会社の怠惰だなぁって」
「…同じキャリアかな。うん、そうみたいだね」
 そう言って男は僕のスマホを少し身を乗り出して見てから笑う。変な人間でなくて僕はほっと胸を撫で下ろした。やっぱり僕の観察眼は間違ってない。

 暫く無音の時間が続く。
 公文書館に人の出入りは少なく、老人は益々気難しい顔をして本を読んでいると、スーツ姿の男は携帯を弄っているし、老婆がうとうとと船をこぎ始めている。目の前の男は資料を読んでいる。
 対して僕は次第にどうにも落ち着かなくなった。いや、僕が勝手にどうにも落ち着かなくなってしまっただけなのだが、眼の前の男と会話が無い時間を何だか気まずく感じてしまってどうしようもなくなった。別に知り合いでもないし、さっき少し会話しただけの間柄で、ここは公文書館で、別に会話する必要も無い。そもそも会話するために相席になったわけではない。
 なのに何かを話さなければいけないような気がしてしまうのを僕は少しの自己嫌悪に似た気持ちを抱きながら、せわしなく手元のファイルに視線を落とした。こんな気分になるなら話しかけなければよかった。損した気分だ。
「それは課題?」
 目の前の男がたいして顔も上げずに言うから僕は驚いた。どうやって僕を見ていたんだろう。僕はじろじろと相手を見ていたというのに。
 男の言葉はあっていたから、僕はとりあえず頷く。

 僕が今やっているのは大学のレポートだった。さっきから睨みつけるように――途中でラジオの雑音に邪魔されながら――読んでいたのは役所が編纂した町史で、これがまた読みにくい。素人が作ったんだろうな、と分かる下手なまとめ方だ。どっかの教授に執筆依頼をすれば良かったものを、役所の担当者がまとめて本にしたのだろう。とにかく使えないわけではないが、微妙に論点がずれていて読んでいてイライラするのだ。担当部署に居るのは無能な人材ばかりなのか、予算が無いのか。もしかしたら両方なのかもしれない。
 おかげで僕は郷土歴史をまとめるパワーポイントの資料作りがさっぱり進まず、いい加減イライラしていた。明日にも担当教授にレジュメを確認してもらう予定でアポまで取っているというのに。
 予定が狂うのを僕はとても嫌う。一度狂った予定は修正するのに多大な手間を要するからだ。ならば予定が狂わないように頑張ればいいだけの話なのに僕の取り囲む環境が僕の行く先を阻む。

「ここに近い大学だったら…」
 男に大学名を聞かれて僕はまた頷く。そんな僕の顔を見た男は自分の想像が合っていたことに納得したのか、そっか、などと言ってまた手元に視線を落としてパラパラとファイルをめくり、作業を再開した。
 そして僕はと言えばちょっぴり拍子抜けしていた。
 僕の通っている大学はそれなりに名の通った大学だ。大学に受かった時は両親は手を叩いて喜んだし、叔父さんは僕を見る度に、大学で頑張るように、お前が卒業したら俺の会社を手伝ってもらおうかな、なんて冗談交じりで言ってくる。まぁ僕は地元の従業員が十数人しかいない小さな会社でおさまる人間ではないと思っていたから、何時も曖昧に言葉を濁していたが。あの叔父は図々しくて困る。
 だから僕は期待していたのだ。すごいね君って賢いんだね、なんて言われることを。人から称賛されるのは正直何時だって気持ちがいいものだ。もしかしたら目の前の男は大学のレベルを知らない程度の人間なのだろうか。賢そうに見えるのに。だから僕は意地になって会話を続けた。
「あなたは?それは何の調べ物を?」
「仕事。…と趣味かな?」
 僕の言葉に男は資料をめくる手を止めた。手にはこの街の人口統計と国勢調査局が発行している冊子があった。
 この男は何者なのだろうか。そもそも統計データはネットからダウンロードできるだろうに、わざわざこんな所まで来て詳細資料を求める所がちょっとよく分からないけれど、とりあえず僕とは違って作業を苦に思ってないらしいという事は分かった。
「趣味、ですか?ああ、好きなことを仕事にしているんですか?」
「そうだね。そんなところかな」
 一瞬男は驚いたように目を丸くして、そして首をほんの少しだけ傾けてみせた。無意識の行動なのだろうが、嫌味に見えない仕草がやけに目につく。そして手元に視線を落として、結び目がほどけるように、男は少し嬉しそうに笑って見せた。
「……」
 そりゃ羨ましい事だ。
 僕は男がはにかんだように笑った顔を見ながら、じわじわと競り上がってくる嫉妬心のようなものを抑えきれなかった。
 やりたい事をやる。大いに結構。でもどうせ男の収入は低いに決まってる。どうせ稼げない職にでもついているんだろう。そうでなければやりたい事を仕事にするなんて無理だ。世の中そんなに上手くは出来ていない。そんなの不公平だ。
 僕はそう思う事にして、目の前の僕の課題に今度こそ取り組み始めたのだった。



 そうして僕は次の日も腹を立てたまま、カフェのオープンテラスで買ったカフェオレに殆ど口をつけないままキーボードを叩いていた。
 まさに憤慨やるかたないとはこのことだ。内心で渦巻く苛立ちを蹴飛ばそうと躍起になりながら、僕はイライラとクリアファイルの中に雑多に詰め込んだプリントの中から目的の一枚を取り出す。しかしそれにつられて引っかかった他のプリントが床に落ちてまた腹が立って、思わず悪態が漏れた。
 僕はもう椅子から立つ気にもならずに無精を承知で上体を曲げて床の上のプリントに手を伸した。だがあと数センチの所が届かずに、僕の指先が宙を引っ掻く。それでも悪あがきをして、く、く、と腹から息を出して手を伸ばしていると、目の前のプリントがいきなり消えた。
 視界から消えたプリントをあわてて追いかけて、上体を起こすと目の前にすっと差し出されたのはさっきまで僕が取ろうとしていたプリントだった。
「あっ、すみません」
 通りすがりの人に拾ってもらったのだ。そう思い当った瞬間に、かぁっと羞恥で頬が炙られたように熱くなる。家でやっているんじゃあるまいし、外で恥ずかしい事をしてしまった。
「いいんだ、気にしないで…あれ?」
「…あ、」
 そして僕は差し出されたプリントを持つ腕を辿ってその顔を見て間抜けな声を上げた。
「また会ったね」
 そう言ったのは昨日会った男だった。昨日と同じジャケットを着つつも、今日のシャツは薄いチェックの色をしていた。右手にはトールサイズのカップ。左の小脇にはノートパソコンと新聞がひとまとめにして抱えられている。
「そうですね…えっと」
「そっか、名乗って無かったね、僕はサムだ」
 そう言って男――サムはカップを左手に移して僕に手を差し出した。僕も慌てて手を差し出す。サムの右手はさっきまでコーヒーを持っていたからかほんのり暖かい。さらりとした体温よりも幾分か高い温度が僕の掌に残る。
「どうした?知り合いか?」
 しかしサムの後ろから一人の男がいきなり顔を出して僕は思わぬ登場人物に面食らって驚いた。
「うん、昨日公文書館で会ったんだ」
「昨日お前が調べに行ってたアレか」
「うん、そう」
 こいつは誰だろう。僕は新たな登場人物をまじまじと見る。
 その男はサムと同じカップを持っていたが、しかしサムとは対照的な雰囲気を持っていた。
 背はサムほど無く、サムに比べると髪も短い。が、それでもぱっとしない僕の身長と比較しても十分長身で、何よりとんでもなく整った顔立ちをしていた。僕はちょっと身を引いた。男前すぎる。だが、何より遊んでそうで軟派っぽい雰囲気が僕の鼻を突く。きっと苦手なタイプだ。

 サムは男と軽い言葉の応酬をしている。僕はどうしていいのか分からずに、かと言って作業に戻る事も出来ずに、会話から置いてけぼりになったような疎外感を持て余す。しかしそんな戸惑う僕に気が付いたのか、サムはその男を指差して僕にこう言った。
「彼はディーンだ、僕の兄貴だよ」
「お兄さん?」
 何から何まで、なんて似ていない兄弟なんだろう。ディーンは僕を一瞥して少しだけ愛想よく笑ったものの、先に席選んどくぞ、と言い残して先を歩いていく。僕は少しホッとした。もしも会話をする場面になったとしても、何を話していいのか分からないからだ。
 それにディーンという男は僕を歓迎していないようだ。目が、表情筋が、仕草といった言葉以外の伝達手段全てを使って、僕という人間に興味を示していないのが僕には分かる。人の目に対してアンテナを張り巡らせる生き方をしてきた僕には分かる。
 あいつは僕を嫌いだろうし――僕はあいつの事がもっと嫌いだ。

 サムは僕と机の上に広げられたプリントを交互に見つめて、こう言った。
「少しイライラしているのかな?」
「…あ、その」
「気分を悪くさせたらごめんね」
 気を悪くする事なんてない。サムの言う事はとても合っている。
 今日、昨日慌てて書きあげたレジュメを教授に見せたら、悪くは無いけれどもう少し掘り下げたらどうだろうか、というぼんやりとしか指示しか出なかった。つまり直せ、そう言われたのだ。
 しかし僕は大雑把な指示だけを受け、しかも方向性を示して貰えないままで、心底困っていた。かと言ってこのまま教授の言う事をぼんやり無視して突き進むまでには思いきれない。レポートの完成度うんぬんよりも、むしろ僕はその事を後で教授に遠まわしに指摘されるのがとてつもなく嫌だった。僕はそういう人間だ。今や舵取りの方向が分からずに、海原に放り出されたような心細さが苛立ちに変わっている。
 気分転換にカフェのテラス席に来てはみたけれど、結局イライラしている現状にあまり変わりなく、作業もさほど進んでいない。
「ちょっと行き詰ってて」
「そっか。君がやってるのは…えっと、郷土地理?」
 サムが僕の手元を覗き込んで言う。
「いえ、歴史です」
「そっか。面白いよね、僕も郷土史って好きだな。マクロでは見えないものが見えるよね」
「ええ、まぁ」
 言うほどはそんなに面白くない、と僕は思う。僕が面白そうと思うのは大抵シラバスに書かれている内容で止まってしまうからだ。それは決して講義が面白くないとかじゃなくて、講義が始まると単位が気になってそれほど楽しめなくなるし、発表なんかあると最悪だ。講義は為さねばならぬ義務に成り果て、講義は楽しそうとか面白そうとか、あんまり気にならなくなってしまう。ただつまらないだけだ。
「…それ、図解があればもっと面白いかもしれないね」
 サムが僕のPCの画面を見つめて独り言のように言う。しかし僕が反応するより前に“おい、サムー”なんて彼を呼ぶ声がサムの意識を僕のPCから引き離してしまう。
「今行くって。せっかちだな。…じゃあ」
 そう言ってサムは僕の言葉なんて待つ事も無く、さっさと歩いていってしまった。その背中を見送った後、PCに視線を落として僕はようやく気が付いた。
「あ。」
 そうか図解か。なるほど。本から引っ張ってきたものを別添資料としていたが、自作のものは全く入れていなかった。もしかしなくとも突破口が見つかったかもしれない。

 僕はPCと資料をひとしきり眺めて、少し離れた場所でディーンと話をしながらPCを見つめているサムを眺めた。彼の兄と会話をしている横顔は僕と話している時よりずっと幼く見えて、彼は一体どんな人間で、どんな職業をしているのか、とかそういうものをもっと色々知りたいな、と思った。
 もうきっと会う事は無いだろうけど。




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