【!】時系列はデビューから10年後です。
【!】作中でトキヤ、音也共に女性とお付き合いや関係のあった事を示す描写がありますので、苦手な方はお気を付けください。
【!】作品の展開上、ST☆RISHは6人構成の設定になっています。
『今日って忙しい?』 たった一言。音也からのメールが、そんな文面になる日がある。 トキヤはロックを解除したスマートフォンの画面に表示された新着メールの中の文章を見つめ、僅かに息を吐いた。 音也は常の喋り言葉同様、メールも普段の勢いそのままに文字を並べる。文章であっても直感型。思いつくままに文章を綴る。それは雄弁、もはや多弁でさえあるほどに。学生時代から変わらない音也の癖だ。 『重要な用件がある時はまず最初に簡潔に、そして他に何かメールに書きたい事があればその後に続けなさい』 そんな風にトキヤが音也に言い聞かせたのは何時の事だったか。まだ早乙女学園に在籍していた頃、それも5月だとかそんな頃だったはずだ。 あの頃から音也はメールに思いつくままに今日あった面白い事を並び立てていた。5月と言えばトキヤは音也の事をまだ激しく警戒していて、部屋でも碌な返事をしていなかった頃だったと言うのに。 あの頃の音也がどうあったって友好的とは言えない態度をとっていたトキヤに何故日常のメールを送りつけてきたのかは知らない。 けれど今になって考えてみれば、朝は早くに外出し、帰宅は夜遅く、加えて学園を休みがちだったトキヤが学園に馴染みやすいようにするための音也なりの配慮だったのかもしれないとも思う。もちろんそれはただのトキヤの考えすぎで、音也は何も考えずにメールを送りつけていただけなのかもしれないが。 その辺りをトキヤは改めて音也に確かめた事はない。恐らく今更聞いたとしても「んー、俺はそんなつもりは無かったよー」とでも言うのではないかと思う。そんな風にさらりと言ってのけてしまえる男なのだ、一十木音也と言う男は。驚くほど聡く、ここぞという時の空気を読む能力は誰よりも高い。それとなく周囲の人間を環境に馴染ませる配慮の出来る男だ。 兎に角、HAYATOと学生との二つの身分を背負っていたあの頃、トキヤにはひたすら時間が無かった。若かった分、今に比べれば余裕も無かったし、音也の配慮だったかもしれない行動を読み取る事も出来ず、並びたてられたメールの中の日常を知らせる言葉に悔し紛れのため息をつき、そのメールの最後の最後に『今日何時に帰ってくる?』と書いてあった日にはトキヤの眉間にはいつも深い縦皺が3本刻まれた。 トキヤにとっては現場での僅かな休憩時間も貴重だった。音也からのメールに対して今すぐ返信を要するものなのか、帰ってから話しかけてやればいいのか、すぐ判別できないメールの文面に苛立つ程度には。 『重要な用件がある時はまず最初に簡潔に、そして他に何かメールに書きたい事があればその後に続けなさい』 デビューする前から習慣つけておけば後々音也のためにもなるだろう、とそう思い、ある日音也にそんな風に注意したのだが、よくよく考えれば用件以外の内容を送るな、と言わなかった自分も大概なものだ、とトキヤは過去の自分を思い出して苦笑する。 口ではどんな文句を並び立てていても、音也の話を聞きたくないわけでは無かったのだ。 話が逸れてしまった。トキヤは思考を飛ばしていた自分を些か恥じながら、もう一度メールの画面に視線を落とした。 短い文章。全く以て音也らしくない文章。 しかしこんな音也のメールがトキヤに送られてくるのは、これが初めてではなかった。年に数回程度、けれど2か月に1回というほどではない。そんな頻度でこんなメールが送られてくる。 普段の音也は『忙しい?』なんてメールであっても――メールだからこそ聞いたりなんてしない。 『ねぇトキヤ!今日暇?あのさ!』 そんな風にわざわざこっちのスケジュールが比較的空いている時を狙って、強引に音也のペースに巻き込んでくるのだ。 こんな風に届く音也へのメールの返事は常に決まっている。そうでなくても音也からの誘いのメールに対して断りの返事を入れる事など皆無に等しいのだが。 勿論、素直に諾と言うメールを入れるのは悔しいから何時も渋々という体裁を崩したりはしない。けれど今日は――音也がこういう気弱な文面でメールを入れてくるときは――トキヤも普段の虚勢を張らずに素直に返信を打つ。控えめな文面の向こう側の音也が窺うようにこっちを見て、自分のメールを待っているような気さえするのだから相当なものだ。 『インタビュー中です。今休憩中ですが、後少しで終わりそうです。この仕事で今日は終わりですから、何時もの場所でいいですね?』 いいですか?とは聞かない。いいですね?と送るのもこういう時だけだ。 消極的になっている音也に対しては多少強引な方がいい。そうでないとすぐさま身を翻し、必死で差し出したであろう手を引っ込めて、一人で抱えこもうとしてしまう。音也は人の輪の中に入るのが抜群に巧いのと同じくらい、独りになるのも巧い。恐る恐る伸ばしてきた手を掴み損ねるのだけは避けたい。それがトキヤの本音だ。 時間があまりないため、簡潔で必要な内容だけを打って送信ボタンを押す。すると刺さる視線を感じてトキヤは顔を上げた。 「何かいい事でもあった?」 そんな風にトキヤを見つめて少し笑うのは、今日トキヤが受けている雑誌のインタビューの担当インタビュアーだ。 仕事が出来るのだろうと分かる利発な瞳と、嫌味にならない程度の濃い口紅と洒落たスーツが似合う、30代半ばの敏腕インタビュアーの口元が面白いものを見たとでもいうように楽しげに綻んでいる。 音也からのメールに返信していた一連の流れを見られていたのかと思うと、トキヤは急に気恥ずかしくなって、小さく咳払いをしてスマホをバッグの中に仕舞う。 「いえ、特にいい事ではありませんが」 「あら?もしかして彼女?大丈夫大丈夫、これはオフレコだから書かないわよ?」 そんな言葉にトキヤは苦笑する。彼女が業界で評判がいいのは話術だけでは無くて、芸能人の曖昧なプライバシーをきちんと守ってくれるからだ。気難しい大御所俳優が彼女のインタビューしか受けないと公言しているのはこの業界でも有名な話だ。 生憎トキヤに彼女の言うような意味でオフレコを願う事は何もないのだが。 「違いますよ。メールはメンバーからです」 「あら?もしかして音也君?」 即座に出てくる音也の名前に今度ははっきりとトキヤは苦笑した。間違っていない事への気まずさと、一ノ瀬トキヤと一番仲がいいのは一十木音也だと世間に広まっているイメージそのままを肯定してしまったような妙な気恥ずかしさだ。 学園を卒業して10年経っているというのに、未だに当時の寮の同室組は一括りにされる事が多い。バラエティや歌、何につけてもセットでの需要も高く、現にこの前リリースしたばかりのST☆RISHのアルバムには同室同士のデュエット曲がそれぞれ3曲入っている。そしてそれをメンバー自身が一番楽しんでいるのだから、世間の認識は間違っていない事もトキヤの妙な気恥ずかしさを助長させている。 苦笑するトキヤを見て、ふふ、と小さく笑うインタビュアーは再び席に着く。そこは雑誌のグラビア撮影が終わった後のスタジオの片隅の簡素なデスクだ。 「じゃあ後半もさっさと済ませてしまいましょう。一ノ瀬君の表情が良い感じにほぐれてきたことだし」 私じゃなくて音也君のお陰だわー、と続けるインタビュアーにトキヤは苦笑を消せないまま、再び席に着いた。 ICレコーダーのボタンが押され、インタビューの後半部分が再開される。『ST☆RISH結成10周年記念・一ノ瀬トキヤの新たな10年』と銘打たれたタイトルで、来月発売の女性ファッション誌の巻頭に乗せられる予定のものだ。 「じゃあさっきまでは一ノ瀬君の個人のお話だったけど、今からは結成10年を迎えたST☆RISHの話をメインにするわね。メンバー同士の仲がいいのはとても有名だけど、仕事以外での付き合いとかってあるのかしら。そういえば聖川君の主演映画の試写会にメンバーが揃っていた事も話題になっていたわね」 「ええ、幸いにもメンバーの予定がオフだったので。あの時見た聖川さんの映画は素晴らしいものでした。是非ファンの方にも見て頂きたいですね。この前はレンが出るファッションショーも、予定が空いているメンバーは会場で見ました。メンバーの個々の活動を見るのはいい刺激になりますし、益々努力をしようという気になりますね。高め合える存在がいるというのは素晴らしいものだと思っています」 「ツイッタ―を見ているとメンバー同士、オフでも仲がいいんだなって感じるんだけど、誰と会うのが一番多いとかそういうのはあったりする?」 「メンバーとは比較的万遍なく会いますし、オフでも仕事の話はよくしますが、そうですね…まぁ音也が一番多いのかもしれません」 こういう流れになるんだろうと想像していたトキヤは淀みなく言葉を続ける。休憩時間にトキヤが音也との話をした事で、もっと生身の一ノ瀬トキヤを引き出そうとしているのだ。あなどれないインタビュアーだとトキヤは内心で小さく苦笑する。 「発売されたばかりのアルバムの一ノ瀬君と音也君とのデュエット、何度も聞いてしまいたくなる魅力に溢れてて大好きだわ。今までアップテンポの曲を歌っていた二人が今回しっとりとしたバラードを歌ったというのは少し意外で、その意外性も含めて癖になるファンは多そうだなと思ったりしたんだけど、今回も作詞は二人で?」 「ええ、そうです。デビュー10年という事で新しい曲調にも挑戦してみようという話になりました。意外性も含めてファンの方々に楽しんで頂ければ嬉しいですね。…そうですね、何時もデュエットは二人で作詞しているので。今回も歌詞は二人で作りました」 「片思いを切なく歌い上げた恋愛の唄だったけれど、冷静がイメージの一ノ瀬君と元気いっぱいの音也君、恋愛観も違うように思える二人での作詞はどんな風に?ぶつかったりしない?」 「作詞はテーマを決めて話し合いながら一つ一つ言葉を埋めていくのが常です。仰る通り、私と音也は考え方やスタイル、何もかもが真逆なので、特にこういう個人の価値観が求められるような作詞をするときはテーマを決めるんです。今回は言えない秘密を相手に持ちながら、ひたすら思い続ける歌というテーマだったので、テーマさえ決まればそれほど苦労しませんでした。まぁ、付き合いはもう10年ですし、衝突する所はひたすらじっくり話し合って作りました。今はそれも含めて楽しんでいます」 質問に答えながら、自分の言葉はどんな風に記事に構成されるのだろうかとトキヤは考える。ファンが喜ぶような話も意識的に散りばめながら、それでも内面を出しすぎないように、そして嘘はつかないように。これはトキヤのインタビューに答える時の目標だ。 しかしファン云々よりも、これを読むであろう音也が真っ先に喜びそうだ、とトキヤは思った。こんな風に仕事相手としての力量を認める様な事を改めて言葉にしてインタビューで語ったりすると音也は殊更喜ぶ。きっと今回も雑誌を読んだ音也は真っ先にトキヤに感想を言いに来るだろう。 その光景を想像して思わず小さく笑うと、その瞬間その表情を逃すまいと今度はカメラマンに写真を撮られる。全く油断も隙もない。 「じゃあこれで最後の質問。恋の歌を歌う時に思い描くような、一ノ瀬君が好きな女の子のタイプってどんな感じの子?」 「そうですね…」 お決まりの質問。この業界に入ってから何度も聞かれた質問に、テンプレートが口をついてでるのはアイドル、一ノ瀬トキヤのイメージにぴったりの齟齬の無い言葉だ。 ――優しく、責任感があって、自分をしっかり持っている女性に惹かれます。 考えずとも出てくる答えは言い慣れてしまっている。具体性を持たせた方がいいだろうと、10年変わらずST☆RISHの作曲家でいてくれる女性を参考にしているが、彼女は大事な仲間で、戦友であり、トキヤの恋の相手では無かった。 脳裏に浮かぶ姿。10年前から思い描いているのは。 ◇◆◇ 何時もの場所。 トキヤが音也にメールで送ったそこは、二人だけの間で伝わる場所指定の言葉だ。 カラン、と軽やかなドアベルを鳴らしてトキヤが中に入ると、目当ての人物はカウンターで一人、座っていた。 静かな店内。そこは都内でありながらもひっそりとした目立たない場所にあり、穏やかなジャズの流れる気後れしない程度に気品のある場所だ。 会員制ではないが一般人は入れない、紹介のみの半会員制バー。何故トキヤと音也がこの場所を利用できるかと言うと、もちろんレンの紹介だ。しかしその割にメニューは高すぎず、都内の立地を考えれば妥当な料金設定。多少世間に顔と名前が知られていても、プライバシーの点で無用な心配は要らないと言う、随分と都合のいい場所だ。 『案外こういう場所の需要は多いのさ。プライバシーの保護された完全会員制の高級バーに入るのは気が引ける。けど気安くアルコールを飲みたい。でもやっぱりプライバシーは保護されていたい。そんな欲張りな場所がね。例えばそこそこ若くて世間に顔の知られている俺達のような』 そんな風に言ったのは当のレンで、妙な説得力に成程その通りかもしれないと思ったものだ。しかも一部神宮寺財閥が出資しているらしいというから、尚更納得した。こういう場所をレンこそが欲していたのだろう。 そしてトキヤより遅れて1年、成人を迎え、この場所を殊更気に入ったのは意外にも音也だった。 誕生日会の二次会と称してメンバー全員とここを訪れた音也は『マジかっこいい!憧れてたんだ!こういう大人なトコ!』という憧れに憧れると言う典型例で、その場に居た全員が音也らしいと苦笑したものだ。物珍しさが過ぎれば、きっと飽きるだろうと言う予想付きで。 しかし全員の予想に反して、音也は頻繁にここを訪れている。もちろん普段はアイドルとしては気軽すぎる居酒屋や個室のある店を利用しているらしいのだが、ゆっくりと飲みたい時や話したい時は他のメンバーとここを利用しているらしい。らしい、というのはトキヤは体調管理だったり体重コントロールのために、普段外では酒を飲まないからだ。音也もそれを知っているから、トキヤを誘ったりしない。 そう、トキヤが此処で音也と飲む夜はこんな日――音也が少しカウンターにもたれ掛り気味になる日だけというのが――二人の暗黙の約束だった。 トキヤは少しだけ足音を立てるようにしながらその隣に並ぶ。ぼんやりとした音也の意識を寄せるために机の上をトントンと指で叩いた。 「音也」 「あー、トキヤだー。いらっしゃい」 トキヤの姿を認めてへらへらと手を振る音也に思わずトキヤの眉間に皺が寄る。 「貴方、もう酔ってるんですか」 「まさかー。まだ一杯目だもん」 音也はグラスを指さす。グラスの中身は少し粟立ったままの黒い色をしたスタウト。グラスに印字されている文字でそれがギネスだと分かった。その中身は半分も減っていないし、たいして度数の高くないそれにアルコールに耐性のある音也が酔ったとは思えず、トキヤは文句をひっこめた。 「ギネスですか」 「うん、トキヤも飲む?」 20歳も半ばを越したというのに音也は未だに子供舌で、こういう所では『珍しい』『色がきれい』『バーテンがシェイカーを振るのがかっこいい』と、何時もは胸やけしそうな甘ったるいカクテルを好む。音也がどんなものを飲もうと彼の自由だが、アルコールと糖分の組み合わせなどカロリーを考えると魔物でしかない。トキヤはカロリーコントロールという概念を持たない音也についつい小言を零してしまうのだが、今日はそんな必要はないらしい。 その深い黒色を最初の一杯に選ぶ時。それはこういう夜だけで、まるで苦い現実を深追いするような選択だとトキヤは思う。 トキヤはスツールに腰掛け、バーテンダーにジントニックを頼み、チーズも追加でオーダーする。 「ほら、何かを食べながら飲みなさい。どうせ夕飯も食べてないんでしょう。そんな風では酔いがすぐ回りますよ」 トキヤの言葉に一瞬だけ目を丸くした音也は、流石トキヤは俺の事分かってる、と言いながらへらりと力なく笑った。 出されたジントニックをゆっくり飲みながら、トキヤは隣の音也を見る。音也は無言でチーズをもそもそと咀嚼しながら、ぼんやりとカウンターの中に鎮座している年代物のバーボンやウイスキー、リキュールや磨かれたグラスを眺めている。グラスは空で、追加のオーダーはカンパリビア。また随分とベタな注文だ。 そろそろ頃合いだろう、そんな風に判断してトキヤは口を開いた。 「…今回は何か月だったんですか」 「4か月、になってない。3か月とちょっとくらい」 「また一方的に?」 「うん、そうなんだ」 バーテンダーが流れる動作でビールとカンパリを交ぜたそれを音也の前に置く。店内の控えめなオレンジ色の明かりに照らされて、ますますグラスの中身は色味を増している。カンパリは甘いのに苦くて苦手だ、と音也は言っていたはずなのに、今日はとことん酔うつもりなのかもしれない。 「何故?」 「それがさ、理由を聞いても、もう会えないの一点張り」 「それは…」 何と言えば良いのか分からず、トキヤが思わず言い淀むと目の前にいたはずのバーテンダーはいつの間にかカウンターの離れた場所でグラスを磨いていた。さりげない気の利かせ方は流石一流のものだ。 「本当にいい子だったんだ。俺何かしちゃったのかなぁ。この前まで連ドラの撮りで忙しかったけど、なるべくメールも電話もするようにしてたし、」 「あれだけしてれば十分でしょう。貴方、ソングステーションの合間にもメールしてたじゃないですか、無精な貴方にしては珍しく」 「見てたの?恥ずかしいなぁ」 また音也は眉を下げて困ったように笑う。トキヤはそんな横顔を見つめながら、チーズを一つ摘む。余計なカロリーを摂るつもりは無かったが、今日の日中のカロリー摂取量を考えれば問題ないように思えたし、アルコールはトキヤの自制を緩め、理性で抑え込んでいる空腹感を高めた。 音也はこうやって恋人と別れる度にトキヤを呼び出す。 控えめな文面で、音也は暇かどうかトキヤを覗い、その文面でトキヤは音也の状態を知り、このバーをいつも指定する。数か月に1回程の頻度、けれど2か月に1回ほどではない程度で。 音也はふぅと少し長めの息を吐き出して、指先でグラスの縁をなぞる。グラスは汗をかいていて、まるで音也の指に反応したかのように水滴が重力に負けて表面を転げ落ち、コースターに吸い込まれていく。 「相手は誰でしたっけ?ああ、あなたと2クール前のドラマで共演した…」 「そう。トキヤもこの前のスペシャルドラマで共演してたよ。共演シーン無かったけどね」 音也に言われてトキヤは首を傾げる。 音也の言うドラマとは、教師と生徒たちの学園ものドラマのスペシャル版に主役の教師の友人役で出演したものだと分かり、トキヤは小さく頷いた。そして音也の元恋人が生徒役で出ていた事も思い出した。 「まぁ私はちょっとした役でしたから」 「えー、でもすごい存在感あったよ。ここぞ!ってトコで主人公助けてたし」 ドラマも面白かったね、と音也は言いながら、またふぅと息をつく。 音也がまた不意に黙り込んだのを見計らって、トキヤは空になったジントニックを横目に追加のオーダーをかける。ソルティードックという言葉を聞いた音也が、トキヤがそういうの飲むの珍しいねと独り言のように言う。 「…ねぇ、トキヤ」 出されたソルティードックのグラスの縁の塩を口の中に納めすぎないようにしながら口をつけるトキヤを音也が見つめる。トキヤは音也を見返さずに声だけで返事をする。 「何です?」 「……俺って恋人の寂しいとかそういうサインを見逃す天才なのかも」 「何を凹んでいるんですか。らしくないですよ」 「だってこんな風にフラれるのが続けば俺だってそう思うよ」 もう音也のグラスは空だった。音也が続けて今度はブルームーンを注文するのを見届けて、トキヤは水と追加のナッツを頼む。今の内から少しでも水を飲ませておかないときっと悪酔いするだろう。明日はトキヤと音也でアルバムの宣伝で昼からのラジオ出演を控えているのだ。少々飲みすぎても何とかなるだろうが、酒臭い状態でブースの中に入るのは少々、否、かなりよろしくない。 「なんで続かないんだろう…」 薄紫のグラスの中身を見つめながら音也が途方に暮れた様に呟く。心底、途方に暮れたように。 音也は何時も恋人と付き合って4か月の壁を越えられない。トキヤの知っている限り、音也はどれだけ長くても恋人と半年続いた試しがない。 何時も相手から一方的に別れを告げられ、その理由を教えて貰えないまま終わらされるのだ。仮に理由を教えて貰えたとしても『嫌いになったわけじゃないの』などと言う音也曰く、わけがわからない状態なのだと、混乱半分悲しみ半分で、音也はいつもトキヤに泣きつく。 トキヤなら別れる原因が分かるだろうから俺に悪い所があったら教えて欲しいと言われるが、人を取り込むことに圧倒的に長けているこの男が女性相手にそうそう簡単に失敗するとは思えないという所がトキヤの本音だ。 それでも現に音也が恋人と続かないのは事実だ。音也がその理由をさっぱり思い至らないのも、そのたびにトキヤに泣きつくのも、事実だ。 「結婚、できたらいいなって考えてたんだ」 小さな一言に驚いて、トキヤは音也を見る。 ポツリと零された小さな一言が音也の手の中のカクテルの中に落ちた様にトキヤには本気で思えた。そのカクテルの意味は『出来ない相談』、とんだ皮肉だ。 音也を凝視するトキヤの視線に驚いたのか、音也はハッと顔を上げ、慌てた様に手を振る。 「もちろん今すぐとかそんなんじゃないよ、明るくて優しい子だったし。そういうのもいいな、って」 「そうですか、それは……ショックでしたね」 デビュー10周年。気が付けば音也は27歳になっていて、トキヤもまた28歳になっていた。 シャイニング事務所の厳格な恋愛禁止令。いつしか学園生活やその後のマスターコースで謳われたそれらを事務所側から言い渡される事は無くなっていた。 ST☆RISHとして確固たるキャリアと地位を確立し、ただのアイドル以上にそれぞれの得意分野を伸ばして個人の知名度もユニット名に負けていない。大人の分別もついて、当人たちの自由に任せてもいいと事務所が判断したのだろうとトキヤは考えているが、もちろんそれを事務所側に確認した事はない。黙認してやるから上手くやれと言っている事務所の厚意を変につつく必要はないからだ。 そうして音也と言えば、定期的に恋人が出来ていた。 恋人が出来ると電話やメールをするシーンが目に見えて増えるからメンバーの中では恋人が出来た事は誰よりも分かりやすく、翔辺りにいつもからかわれている。出会いは何時も同じ業界の女性で、何時も真剣で真面目な付き合いをしていた。音也も注意しているおかげで、雑誌にすっぱ抜かれた事も無い。忙しい中でも恋人との時間を尊重するために音也は何時も心を砕いていた。 だが将来的に家庭を夢見ていたとは。トキヤはグラスに口をつけると塩味がぐっと増したような気がして眉間に僅かに皺を寄せる。 「子供はさぁ、男の子でも女の子でもいんだぁ、俺」 トキヤの動揺を知らないまま、音也は夢見るような瞳で続ける。その顔はほんのり色づいて、目は潤んでいる。アルコールのせいだろう。グラスは完全に空で、水に口はつけられていない。 「男の子ならサッカーしたいなぁ。サッカーボール買ってあげて、翔も誘ってさ。女の子なら何して遊んでくれるかな。ままごとかな、人形遊びかな。俺じゃきっと女の子が好きな人形とか分からないから一緒にお店に選びにいくんだよ。トキヤおじさんが買ってくれるから遠慮せずに買ってもらいなーって言ってさ」 「なんで私が買う事が前提なんですか。あとおじさんはやめてください」 「トキヤはおじさんってよりは、おじいちゃんっぽいよね」 「……ナッツを喉に詰まらせてアイドル一十木音也死亡、って見出しを明日の新聞に載せますか?」 ギロリと隣を睨むと、音也は少し焦ったように、しかしトキヤがそんな事をするわけがないと言う安心感からか、それでもへらへらと笑いながら続ける。 「違う違う、トキヤが老けてるとかじゃなくてさー。よくドラマとかであるじゃん、あんまり喋らないおじいちゃんがここぞ!って時にすげー良い事言うの。トキヤ、そういうのぴったり」 「なんですか、それは」 「だってトキヤ、俺に何時もここぞって時にすげー胸に響くこと言ってくれるし」 俺、いつも助けてもらってるんだぁ。 そんな風に続けた音也の横顔は今にも泣きだしそうに見えた。 「だから水を飲めと言ったんです、私は」 「大丈夫だよぉ。だって歩けてるじゃん」 「私の肩を借りてるこの状況を歩けていると言いますか、貴方は」 結局あれからトキヤがやめておけと言ったのにも関わらず数杯のカクテルを上乗せし、音也は見事に酔いつぶれた。 幸いなのは限界値を超えた音也は前後不覚になる程度で済むと言う事で、極端な絡み酒にならない事だ。普段からテンションが高いから酒を飲んでも普段とのテンションの落差が無いからかもしれないと、音也が聞けば不平を漏らしそうな事をトキヤは考えているが、それを抜きにしても飲みすぎて吐いた事が無いというのだからたいしたものだ。トキヤと言えば周囲から飲まされた酒で何度か地獄を見ている。 遠慮なく肩にかかる脱力した音也の重みにトキヤは自身の眉間に皺が寄るのを感じながら店を出る。店の前には既にタクシーが止まっていて、それが気を利かせたバーテンダーの配慮なのだと分かり、最後まで抜かりの無いプロの仕事にトキヤは内心で舌を巻く。 タクシーの中に乗り込んで、トキヤが自分のマンションの住所を告げると、車は滑るように走り出す。 マスターコースを終了してから数年間、トキヤをはじめメンバー全員が事務所の寮に住んでいたが、今はメンバー全員がそれぞれマンションを借りて、寮を出ている。最初に寮を出たのがレンで、それから順番に皆が寮を出たが、最後まで寮に残っていたのは音也だ。 育ってきた環境のせいか、住むところにあまりこだわりのない音也は特に寮を出るつもりは無かったらしい。だが後輩が次々と入寮してくる中で部屋を開けざるを得なくなったようだった。今まで自力で物件を探した事の無かった音也が、マンションを借りるにしても何処がいいのか分からない、とトキヤに相談し、トキヤが自身のマンションの近くの物件を教えたのはもう数年前の事になる。 『トキヤと同じマンションでもいいんだけどなー』とおどけて言う音也に『貴方と同じマンションなんてまっぴらです』と言いながら、実の所自分の住んでいるマンションに空きがあれば音也に紹介してもいいと思っていたなどどトキヤは死んでも言えない。幸か不幸か空きは無かったのだが。 酔った音也を一人で暮らす部屋に放り込んでもいいが、きちんとベッドで寝るかどうかは考えるまでも無い。それに明日は一緒に現場に向かおうと約束したばかりだ。なんだかんだと言いながら、トキヤが酔った音也を泊めるのはいつものことだ。そして今日も。 音也はその頭をトキヤの肩にもたれ掛らせていて、俯いた頭からは起きているのか眠ってしまっているのかトキヤにはよく分からなかった。時々「ううん…」というむずがる様な声が聞こえるという事は殆ど眠っているも同じだろう。 深夜のFMラジオからは何の偶然か、例の二人のデュエットソングが流れてきていた。運転手が「ST☆RISHは売れてますねぇ」「今度のアルバムに入るメンバーのデュエットソングなんだそうですよ、私の娘が好きなんですよ。ルーレット組って言うんですよねぇ、あの二人」という言葉に、まさか本人ですとは言えずに曖昧な返事をしながらトキヤは窓の外を見る。運転手がトキヤにことわってから、少しラジオのボリュームを上げる。流れ出すのはトキヤのパートだ。 ――言えずに今日も僕は立ち竦む 君のためだと嘯きながら 切なげなメロディに乗せた自分の声を何処か他人のものとして聞きながら、トキヤは窓の外を流れる街の明かりを追いかける。自分の作詞した歌詞はトキヤ自身の声で歌いあげられる。その歌詞にトキヤはぼんやりと昼間のインタビューを思い出した。 “言えない秘密を相手に持ちながら、ひたすら思い続ける歌” 専属作曲家からラフの段階ですが、とCDを渡され、その切なげなメロディーラインにトキヤが真っ先に思い浮かべたのはそんなイメージだった。そう思ってしまうと他のテーマで作詞など出来ないと思ってしまうほどに。 そんなテーマをトキヤから音也に持ちかけた時、音也は『難しそうなテーマだけど、俺頑張るよ!』と答えた。その時、確かに音也には難しいだろうとトキヤは思った。 愛する人に秘密を持ちながら未練たらしく思い続けるなど、音也のような真っ直ぐな心根を持つ男には分からないだろうし、そんな愚かな姿は音也には似合わない。彼は愛を真っ直ぐ伝える男だ。 こんな風に曲の中に少しの本音を散りばめる事しか出来ない男とは違って。 ――夜の中、落ちた嘘、それってねぇ君のため? トキヤのパートに重なるようにあまやかな声が重なる。音也のパートだ。トキヤがラフとして上げた歌詞にレスポンスさせて音也が書いた。 正直に言うと音也の歌詞を最初見たとき、トキヤは驚いた。トキヤが書いた歌詞の内容とその向こう側まで完全に汲み取ってしまったのではないと思わせる様な的確さで歌詞を上げた音也に。愛に対して真っ直ぐな男が、こんな歌詞を書けるのかと。 そして同時にひやりとした。気付かれているのではないかと。 「トキヤは彼女いないの?」 突然のささやくような静かな声に、トキヤは柄にもなく驚いた。少し目線を下げるとさっきと変わらず俯いたままの音也の顔は見えない。眠っているとばかり思っていたのに、そうではなかったらしい。 「…いませんよ」 「欲しくないの?」 「要りませんね」 即座に断言すると、少し会話が途切れる。ラジオからはまだ曲が流れている。強盗対策のためにプラスチックの板で仕切られた向こう側の運転手には囁くような二人の会話は聞こえない。窓の外は夜の帳と都会の明かり。まるでこの空間だけ世間から切り離されたように錯覚してしまいそうだった。 「でもトキヤ、女の子と寝てはいるんだよね」 またひやり、とした。けれどトキヤはそれをすぐさま隠す。 「……どうしてそう思うんです」 「たまーに仕事も無いのに電話繋がらない時あるし、その後トキヤと会うとトキヤのじゃない石鹸の匂いするときあるし」 「貴方の嗅覚どうなってるんですか。犬ですか」 見下ろす赤い髪の毛は動かない。戯れに触った時にその髪が見た目に反して酷く柔らかい事をトキヤは知っている。学生の頃からずっとだ。 「寝てるのに恋人じゃないの?」 音也の言葉の中に滲むのは純粋な疑問。体を繋げてそれでも恋人にステップを進めないことに対するただの疑問。その言葉にやっぱりこの男は真っ直ぐな男だとトキヤは思う。純粋で、綺麗だ。 「違いますよ。一回きりの相手です」 「そっかぁ。トキヤだったらスマートになんでもこなしちゃうんだろうなぁ。泣きつかれたりしないの?私と付き合ってー、って」 それには答えない。思わず喉の奥でひっそり苦笑すると、僅かなトキヤの体の振動を感じ取った音也はぐりぐりと頭を肩に押し付ける。酔い特有の甘えた仕草にトキヤもほろ酔いのせいにて、その手を頭に乗せて柔らかい髪を掻き回す。 「あーあるんだー。トキヤは悪い男だなぁ」 ええ、そうですね。私は悪い男です。 トキヤが内心でそう答える。いつの間にかラジオからはもう別の曲が流れてきていた。 「ほら、ソファーまでは歩いてください」 「うーん、トキヤ、水…」 「それはソファまで貴方が歩いてからです!」 マンションについても自力で歩けない音也に肩を貸して、何とかトキヤの部屋までたどり着いても、そこから靴を脱がせてソファに転がすまで一苦労だった。酒の入った音也は普段の甘えた仕草が倍になる。トキヤぁ靴脱がせて、と言った瞬間には酔っ払い相手だと分かっていながら、いや、酔っ払いだからこそチョップを落とした。 リビングのソファに音也を放り投げるように転がす。音也が泊まる時は何時もこのソファを使っていて、それを見越して引っ越すときにわざわざカウチソファにしたなどとは音也に言った事はないし、これからも音也は知らなくていい事だ。 「トキヤー。俺、頭どっかぶつけたっけ?さっきから頭ジンジンする」 「それは私がさっきチョップをくらわせたからですよ」 「えええ…。俺全然気が付かなかったよ…」 「それは貴方が酔っているからです。ほら、水を飲みなさい」 冷蔵庫から出したミネラルウォーターを音也に渡し、手ごろなブランケットをその体にかけてやる。ペットボトルの半分ほどの水を一気に飲んだ音也は、かろうじてお礼と判別できるような言葉をもごもごと呟きながら、ブランケットを被って居心地のいい場所を探しているようだった。 もうここまで面倒を見てやったらいいだろう。そんな風に判断して、寝る準備をしようとトキヤはジャケットを脱いで軽くシャワーを浴びようと浴室に向かいかける。 「ね、トキヤ」 寝言でも独り言でもない、はっきりとした呼びかけ。その声にトキヤは振り返る。 もう寝るとばかり思っていた音也がブランケットから鼻までを出してトキヤを見つめていた。その眉はこれ以上ないと言うほど下がっている。 「どうしたんです?そんな情けない顔をして」 トキヤは浴室に向かいかけていた身体を引き返して、音也の寝ているカウチソファに腰掛けた。頑丈なカウチは小さな音を立てただけで、すぐに沈黙する。 「本当に今度は今度こそ大丈夫だと思ったんだよ…」 「ええ、そうですね」 「こんな俺と家族になってくれると思ったんだ」 「ええ」 「俺なんかと家族になってくれる人、いるのかなぁ」 音也の声が揺れているのをトキヤは聞かない振りをする。音也が不安で仕方なくなるこんな夜にトキヤは音也とこの距離を保つ事しか出来ない。 「きっといますよ。今回はその相手じゃなかったというだけです」 『こんな俺』『俺なんか』 音也はこんな風にたまに自分を卑下している事に気が付いているのだろうか。いや、きっと気が付いていない。その度にトキヤは歯がゆくなる。 音也はバカであろうとするが、愚か者では無い。半分意識的に、半分無意識に馬鹿であろうとする事が、どれだけタチの悪い事か音也はきっと気がついてはいない。 音也はずっと家族を欲しがっていた。壊れない絆。悠久の繋がりと、無償の愛で繋がる、優しくてあたたかくて、音也がほんの子供の頃に突然奪われてしまったそれをずっと欲しがっている。 愛に飢え、才能を持っていた子どもは、哀しみを和らげる手段として、感情を表現するツールとして磨き上げた大好きな歌で、大勢の愛を受け止める事の出来るトップアイドルになってみせた。 けれど音也は本当に欲しがっているものをまだ手に入れていない。 彼はまだ家族を手に入れていない。唯一を求め、時に孤独に怯え、暗い夜に独りで立ち尽くしている。 だから私は。トキヤは思う。 だからトキヤは何時も音也の恋人が音也を決して裏切らないか試す。試さないではいられないのだ。 優しそうな彼女だった。朗らかな笑みが人好きさせるもので、あの学園ドラマの中では少し目立つ程度の生徒役でしかなかったが、これから伸びるだろうとトキヤが思える程度に現場では光っていた。撮影現場での人当りも良さそうだった。 けれどトキヤが声をかけると、その女はほんの少し頬に色を昇らせた。 ――私と貴女は撮影現場では共演するシーンがありませんでしたから、貴女の事をもっと知りたい。 そんな本音など一つもない空虚な艶言をトキヤが唇に乗せると、その女はその身を簡単に委ねてきた。 ――音也の彼女なのに随分と身持ちが軽い様ですね。音也に言いましょうか、貴女の裏切りを。 ホテルの一室、全てが終わった後。シャツを羽織りながらそんな風にトキヤが言うと、ベッドの中の女はさっきまでの夢見心地な表情から一変して、ひどい、と言った。 ――ひどい、私が音君の彼女だと知っていて。 うっすらとトキヤが笑うと女は目に涙をいっぱいに溜めて続けてこう言った。 ――あなただって音君の友達でしょう?これがバレたら貴方だってタダではいられない。 ――別に言ってもいいですよ? トキヤはそう答えて嗤った。 ――よく考えてください、音也に罪の告白をする意味を。最終的に、貴女の口から浮気を告白して、音也に、あの音也に、軽蔑されることに耐えられるなら。どうぞ、ご勝手に。 そんな風に恋の終わりの原因をトキヤは作った。もちろん今回が初めてではない。 トキヤがそんな切欠を作るだけで、女たちは皆、口を一様に噤み、音也に別れを告げる。理由は言えないと言う一言で。 言えるはずがないだろう、誘われてあなたの親友と寝たなど。音也には絶対に言えない。音也に真っ直ぐ愛された女なら、音也の輝く内面を知ってしまえば、それは強烈な裏切りだと分かるからだ。絶対にやってはいけないことだったのだと、女は罪悪感に飲み込まれ罪の告白さえ出来ない。一時の誘惑に抗えず、股を開いたなど女たちのプライドも邪魔する。だから何も言わずに女は音也と別れる。沈黙すれば誰も痛手を負わないのだと、そんな理由で。 そうして何も知らない音也はトキヤを飲みに誘う。そう、今日のように。 トキヤの思考は音也がトキヤの手を小さく握る事で引き戻される。音也はアルコールのせいか、他の理由があるのか、瞳を潤ませてトキヤを見つめている。 「トキヤぁ、俺がずっと結婚できなかったら、こんな風に俺の事見捨てずにずっと一緒にいてくれる…?」 まるで幼子のようなそれ。トキヤにすがる体温は何時もの子供体温以上にアルコールで火照っている。 「居ますよ。貴方が望めば、私はずっと」 優しく、誰にも聞かせたことの無いような優しい声が意図せずトキヤの唇から零れる。その声に音也は心底安心したように微笑んで、そうして眠りに落ちる。こうしたやりとりも今まで何度も繰り返してきた。トキヤが女と寝た数日後には、必ず。 トキヤが音也の彼女を試し、そうして音也は一つの恋を喪い、トキヤに縋り、アルコールで前後不覚になり、心の底に潜ませている不安をトキヤに告げる。そんな繰り返し。翌日目覚めた音也は自分の言った事など覚えていない。何一つ。 これは裏切りだろうか。トキヤは思う。音也が知れば怒るだろう。けれどあの男が本気で怒る姿も想像できずに、背を向けられ絶縁される光景を想像する方が余程しっくりきた。 しかし裏切りなのだと叫ぶ理性的な自分を押しのけ、純粋な願いを祈るもう一人の自分もトキヤの中には存在する。 音也を手に入れたいのなら、音也を裏切る様な人間は絶対に許さない。 トキヤはただ、音也を裏切らない人間でなければ――ただ一心に音也を愛する女性でなければ許せないだけだ。音也以外を見る事を出来ないくらい音也に対して一途で、優しく、音也に家族のぬくもりと、家族をもたらしてくれる絶対の存在でなければ駄目なだけだ。 音也を一生手に入れられる事に比べたらそんな簡単な事、出来るに違いないのに、音也が選ぶ女性は何時もそれが出来ない。何時もトキヤの声と嘘の微笑み一つで転がり落ちてくる。それを見る度にトキヤは怒りと失望を覚える。どうすれば音也が絶対の幸せを手に入れられるのか、と。あの男に絶対の安息が与えられるのか、と。 本格的に眠りに落ちた音也の寝顔を見つめながらトキヤは思う。 音也が本当に欲しいものを手に入れたいのなら、アイドルになんてならない方が良かったのだ。そんな本末転倒な事を。歌が無ければここまで真っ直ぐ生きてなどこられなかった音也を見ながら思う。アイドルにならなければ、音也はきっと今よりは簡単に家族を手に入れられた。 音也が願いをかける女性は何時だってこの業界の女で、彼女たちは自分たちが商品であることを男性アイドルよりも根本で正しく理解している。だから彼女たちに正しく音也が求める物を完璧に与える事は出来ない。それがこの業界に生きる者の業で性なのだ。 早く幸せになってほしい。音也が自分に少しも縋る余地も無くなってしまうくらいに幸福で溺れてしまえばいいとトキヤは思う。音也に完璧な幸福を保証するために、こんなやり方をしなくていい日を望んでいる。 「音也、私は…」 言いかけてトキヤは必死に口を噤んだ。眠っていると分かっていても言ってしまえばもう終わりなのだ。 言ってしまいそうになる。片恋をして10年。どれだけ感情を理性で抑えていても限界は誰にだってある。 音也がもしも欲しがってくれれば。 たった一言、トキヤが欲しい言葉を音也が口に出してくれたのなら。 今以上どれだけだって、与えてやることが出来るのに。このどろどろに溶かして煮詰めた愛情を惜しみなく、どれだけでも与えてやれるのに。永遠で、絶対のものを。音也以外は要らないのだと簡単に証明してみせるのに。 音也以外見てこなかった。長い初恋は終わらず、終わる気配も見えず。音也が幸せになるまで永遠にトキヤもこの苦しみから解放されない。 音也が望む家庭と言う一般的な形以外、子供以外、愛だけなら誰よりも強くて悠久のものをトキヤは与えやれる。でもそれでは自分が幸せになるだけだと、音也は幸せになれないのだと、トキヤは幾度となく繰り返した幸福な夢想を苦笑で握りつぶす。 「言えずに今日も僕は立ち竦む 君のためだと嘯きながら」 トキヤは静かに歌う。音也が目を覚まさない程度に。言葉に出来ない代わりに。 あの歌の中で立ち竦んだまま、恋心を伝えずに嘘をつき続けるのは愚かな自分の姿だ。 次の日、目を覚ました音也は何も覚えていない。酔いつぶれた音也はバー以降の記憶を何時も落としている。 そして何も知らない音也はまた少し経てば恋人を見つけ、それを時に報告し、トキヤは音也が幸せになれるか試す。 そして恋を喪い寂しさに震える音也がトキヤに繰り返す一言。 『ずっと一緒にいてくれる?』 この一言に強烈に毒されながら、トキヤは昨日も今日も明日も音也の幸せを願うのだ。 【NEXT/嘘と真実が曖昧な夜明けの話】 |